12.09.2015

憎しみが起こった時に知ることができる

Black Ratifa のクオリティ はエゴの死を示唆する。意識的にいるとエゴがつくりだす問題を拡散させることができる。つまり、エゴは問題をキープできなくなり、死を迎える、しかし、sweet な死だ。ブラックは優しく静かにエゴの死を受け入れる。決して攻撃したりしない。

子供の頃に、パワーは自分以外の人にあり、自分には無いと信じ込んでしまう、パワーの何たるかを知らずに、また感じることができずに、そして、もちろん、それ故に表現できなければ、無意識にもフラストレーションに陥るか、ディプレッションを引き起こす。

本質的には、Black はPeace の質である。この Black Latifa のパワーにディストーションが生じるとパワーはヘイトに変換される。 

peace - 平穏、秩序、安心、静寂
hatred - 憎しみ、嫌悪、怨恨

hatredにはさらに、冷たい、心が無い、つながりが無い、感情多入、悪いことをしても心が痛まない、計算じみている、人をコントロールしたがる、自分のやり方以外は正しくない、他人をけなす、落とし入れる、復讐心を抱く、自分以外のパワーを壊す、すると気持ちが良い、何故なら失ったパワーを感じることが出来るから、などが起こる。

これらは本来持ち合わせているパワーを実感することができずにいる結果として生じる。上記の逆も起こり得る。例えば、人を助ける行為でパワーを感じることができたりする。悪いことではないが、必要以上に無意識の振る舞いになっていないだろうか?

他に、事が難しくなってきたら乗り越えることができず、ヘイトが生じる。エレガントな方法で見極め、間違ったパワーの使い方でゴシップ、中傷したりする。自分を隠したままで。

ダイアモンド・ロゴスは、インクワイアリーを通してこれらのエモーションに向き合う。インクワイアリーはセラピストと向かい合うのではなく、鏡のようにパートナーが座って如何なるジャッジもなしにアンカリングしてくれる。インクワイアリーは続く…

どんな方法で憎しみを止めているか?  
憎しみをどんな風に出しているか?
憎しみの体験はどんな風か?

このようなインクワイアリーをやってみると無意識の自分の行動や振る舞いがあからさまになって見えてくる。そして、次に憎しみを感じた時、このことを覚えていたい。

私はこのインクワイアリーで、変な話だが、憎しみを味わって、味わって、味わい尽くすと、憎しみがぎゅーっとクリスタライズされ、びっくりしたことには、美しいひと粒の宝石になった。どこかのレベルで深刻にならない自分がいるのを見ているのが鍵であったが。

今となっては、何故か、憎しみがやってくるのを楽しみにしている私がいる、本当にそうでいられるか見てみたい。憎しみがやってきた時に知ることができるだろう。well come だ。


"2つ" は、解消できる

Day 3

リジェクティング(拒否する側) とリジェクティッド(拒否される側)、私たちはこの関係を内面でバトっている。つまり、内なるバトル、何かにつけて葛藤が起こる。

リジェクティング(拒否する側) がパワーを持ち、リジェクティッド(恐怖される側)はパワーレスである。プラスこのようなイメージが伴う、パワーレスはウィークだが愛らしく、また愛がある。パワーは力強いが、醜く愛が無い。

あなたは、愛らしくいるか、力強くいるか、どちらを人格的に組み込んでいるだろう?

ブラック・ラティファは静寂をもたらす。この静寂に内なるバトルは存在しない、完全なるOneness であり、aloneness である。愛とパワーのどちらかひとつに引き裂かれることはない。

二面性は静寂を破壊する。拒否する者、拒否される者。aloneness ではなく、lonelyness である。lonelyness は拒否する者、拒否される者に陥ると起こる症状である。

ブラック・ラティファは あなたが state of aloneness に留まることを指す。それを難しくしているもの、そこにインクワイアリーして、エゴ・アイデンティティ(エゴの本性) を明らかにする。

ダイアモンド・ロゴスはエゴ心理学に基づいている。私たちが "私" と呼んでいるものの正体を暴きだし、それから自由になる可能性に開いている。

What is right about avoiding aloneness ?

アロンネスを孤独と捉えると、瞑想者でない限り、様々な恐怖がやってくる。

Tell a way you resist aloneness.

そのような、孤独に陥らないようにどんな事をしているだろうか?

Tell me a way you experience aloneness.

孤独をどう体験するか? ここでは以前にインクワイアリーを深める方法として話した ソマティック・エクスペリエンス を用いる。

体験について話している最中に起こる感覚に注目し、センセーションを追い、同時に観察している。思考は想像であり、事実ではないことが多い。しかし、体は嘘をつかない。

同時に過去のショック・トラウトを解消する可能性がある。体と心から棘を引き抜くことができる。私たちを2つに分けているもの、まさにその体験の拒否された衝撃を解消させることができる。

多くの場合、それが起こった時、私たちは素の自分、素直な自分に触れることができ、同時に真理の理解が起こる。我が家にたどり着いた感覚が生まれる。あぁ、私は此処に居る、と。自分の中心に落ち着き始める。

これが、私の言うところ、インクワイアリーはトラウトワークと瞑想の両方に向かうツールとして使うことができる。



エゴが主人公 ?

Day 3

私たちが "私" と呼ぶ者、そのほとんどが無意識にもエゴを "私" と呼んでいる。私が何かを期待する時、私はそれを "欲している" のだ、こうなってほしいと。

なぜ、そうなって欲しいんだろうか? そう、簡単に言えば、心身ともに居心地が "悪くならない" ようにだ。そのためには、バトルもきさない。。

外に向かって自分をアピールしなければならないのだ。エゴ・アイデンティティはその方法論を考えて、考えて、考え抜く。この時に起こっているのがインナー・カンバセーション、エゴとバトルのはスーパーエゴである。

そう、リジェクティング (拒否する側) のパワーを持つ者、つまりスーパーエゴと一戦を交えるのだ。エゴはリジェクティッド (拒否される側) だから、周到にかからねばならない。時には、反逆児として。時には、良い子のふりをして。時には、ディソシエート (解離) で対抗する。

基本的にはエゴがストリーのマスターであり、主人公である。これらのストーリーは、幼い子供が母親との関係性で体験したことを成人になっても "内なる世界" で繰り返すようになる。そして、この確立したイリュージョンを持って外面的にもそのように振る舞うようになってしまう。

ともあれ、エゴが主人公であり、そのストーリーはマンネリ化している。いつもの同じパターン、同じイリュージョンだから。で、ある時点で自分自身に飽き飽きする。でないかい、ん?

そう、エゴ・アイデンティティ (エゴの主体性、本性) はオブジェクト・リレーションシップ (Me + You + Affect) の中に存在することができる。

エゴのストーリーは "拒否される"と"拒否する" のパワーゲームに大きく左右されている。そして、ストーリーはこのような結論に達する、 Me は良い子/可哀想な子/正しい子 、You は悪い人/強い人/間違った考えの人。それが、どう人格に組み込まれ、自分がどのように振る舞っているか? それをまず知ることが大事である。

ブラック・ラティファのエクササイズはエゴ・アイデンティティを浮き彫りにする。そう、私たちが "私" と呼んでいる者の正体を。

それは私たちの本質ではない。ego identity (エゴの本性) と essence (本質) を切り離すのだ。本物の自分を見いだす。それは、シンキング・プロセスではなく、ダイレクト・エクスペリエンスである。そして、ダイレクト・エクスペリエンスは Known ではなく Unknown である。



12.08.2015

Object Relationship


























Day 3

人間の子供は生まれてすぐ独り立ちできない。
助けがなければ死んでしまう。

食べ物、気温 (寒い・暑い) 、衛生、などなど、
生はサバイバルとして始まる。

これらの助けは家族にもよるが母親がその役割を果たすことが多い。

最低限これらの助けが得られるか、得られないか、
また、どう振る舞えばそれらが得られるか - などが、
のちのちの子供の人格形成へ影響する。

そして、子供の中に自己イメージが確立する。

子供は少しづつ自分で出来るようになっていく。
この成長プロセスで母親と自分が別物であるという体験を通して。

新生児にとって母親と自分の存在はひとつであった。
しかし、助けを得るための努力を通して
Me  と You (または others ) の理解が生まれる。

時に、子供が何かを必要としても母親はそれを与えることができない、
もしくは、与えようとしない。

多くの場合、対話や態度で母親とのバトルが始まる。

そして、私たちは成長してもなお、
頭の中でこのバトルが継続され、内なる囁きが始まるのだ。
子供 (エゴ自我) 、母親 (スーパーエゴ超自我) として。

頭の中に、この2者が存在するようになる。
そして、もうひとつ、それによって生じる影響。

この3つを合わせて オブジェクト・リレーションシップと呼ぶらしい。
このようにして自己イメージを築き上げていく。

Me. が私で、You. がオブジェクト、そして 影響 Affect 。
拒否される側と拒否する側 。

そんな中で、拒否される側は可哀想でも優しくていい人、
拒否する側は悪くてひどい人のイメージを作りながら、
オブジェクト・リレーションシップは妄想の世界を展開し始める。

他には、例えば、パワーある者に憧れを抱くように自分の力を他者に投影する。
この場合、弱者であるかのように振る舞う傾向にある。

弱者のように振る舞うか、もしくは反逆者として振る舞うか、
人格の側面を築く材料となる。

エゴの自己形成にこのようなストーリー性、または妄想が加わっていく。
そして自己イメージ、自我同一性 = 考え thinking に影響する。

ブラック・ラティファはこの自我同一性と自分の力 、
すなわち、拒否される側 - powerlessと拒否する側 - Power のパワーゲームを
私たちのシステムから取り除いていく、と言うプロセスを通っていく。


Day 2 の Inquiry で




















Day 2

インクワイアリーに使われた不思議なセンテンス、
何を聞かれているんだろうと?

ちと、ひるむ。

Tell me a way you experience being rejected. 
"拒否された" をどう体験した?

私は最初のとっかかりで誰が関わって、どんな態度で、どんな状態で
などの状況的ストーリーに入ってしまった。
それではインクワイアリーが深まらないことに不満を感じつつも。

そもそもの間違いに気づいた時、なぜ深まらないのか納得した。
インクワイアリーは"拒否" 自体の体験について尋ねているのだ。

拒否がどんな体験だったかと今更に思い出してみると...

それは云々云々のストリーではなく、
衝撃的な感覚が最初に起こり、
次にパニック、そして、悲しみがやってきた。

衝撃的な感覚は、頭の中が真っ白になり全てが凍りつく感覚。

時間も思考も感情もありとあらゆる全てが瞬間的にストップする。
そして、このような自分の状態にパニックする。

得体の知れない感情のようなものが一気に流れ込んできて収集がつかず、
何が起こっているのかさっぱりわからない、パニック状態。

どうリアクションして良いのか、それすら恐怖を感じさせる。

拒否されることは小さな出来事ではないのだ。
(ちゃんと観察できれば)
内側が精神分裂の寸前までいってしまっているのだ。

そして、この恐ろしい状態は拒否されるたびに毎回起こる。

あまりにも毎回体験するから、しこりのようになって、
パニックに慣れ親しんでしまった。

ひどい話だ。

次いで言うと精神分裂は茶判事である意味、
可笑しな自分になってしまっている。

もう、自分自体が手に負えない、
私のディソシエーションはここから来ているのだろう、間違いない。

と、ここまで書いたが、

そして、ある種の理解は得られたが、これでは深まらないのだ。
知らないよりマシだが理解してもリリースは起こらない。

ましてや、下手するとエゴとスーパーエゴの格好の餌食になってしまう。

インクワイアリーを厳密に行うなら、
衝撃的感覚の体験を描写しそのセンセーションを追う。

パニックの体験を描写しそのセンセーションを追う....
まぁ、そんな怖いこと…  ^^;  

しかし、気づきの中で意識的に行うとトラウマに落ち入ることはないだろう。
そう、SE トラウマワークと同じと言ってもいい。

体が覚えているのだ、その時に何が起こったかを。

そう、頭ではなく、体が真実を話してくれる。
描写しセンセーションを追いながら同時に意識的に観察しているのだ。

ソマティック・エクスペリエンスがリリースを可能にする方法だ。
体かのショックをまず解放する。

インクワイアリーで上記のキーワード は、
ショック、パニック、悲しみ、真っ白、凍りつく、得体の知れない感情、
一気に流れ込む、収集がつかず、さっぱりわからない、などである。

ストーリーは関係ない。

これらのキーワード (メタファ) に誰かが、
なになにふんふん、と相づちを打ちそうだ(笑
メタファといえばクリーンランゲージである。

しかし、全部を開いて広げる必要はないと私が思うのは、
事が起こっている現場から離れてしまう危険性があり、
ましてや、私にとってファンタジーはごはっとうである。

SE トラウマワークだけではない、瞑想も同じプロセスを通っていく。
インクワイアリーにはトラウマワーク、瞑想、その両方が兼ね備わっている。

ちょっと、ここで一息入れよーっと。
そうそう、何が言いたいのか?と言うと、

ダイアモンド・ロゴスで行うエクササイズ、半端でない。
私の深い深い恐怖とパニック症候群という症状に働きかけている。

拒絶される、拒否される、
これは人間の、個人の力を奪い去る強烈な体験なのだ。

この体験から立ち直るのは...
言い方を変えると、

この体験によって自分を見失わないようにするには
この体験によって純粋さや愛や優しさや
慈悲や静寂を失わないようにするには

正しく理解するほかない



12.07.2015

リトリートの2日目の朝の瞑想中に…

 前回のグリーン・ラティファからこの朝に至るまで、私はいつもの私を失っていたのだ。つまり、数ヶ月に及んで "ひらめき" が起こらなかった。ありえないことだ、私は常時ひらめきまくっているティピカルなエニアグラム7番である。

が、グリーン以来、全くといってひらめいていない。ジェットラグだと思っていた。ついこの間、一ヶ月ほどの間に国をまたいで 6回も飛行機に乗ったのだ。もしくは、忙しくしすぎて脳がパンクしたのかもしれない。

が、今朝の瞑想の最中にひらめきが起こった。幾つかのひらめきが… あっ、あれ? 戻ったぞ! いつもの私の頭の働きが、戻ったぞ! ちょっとホッとした。私は、もしかしたら、このまま呆けていくのかもしれない的な心配を持ち始めていたところだったのだ。

そして、瞑想中にこんなことも思い出していた。子どもの頃、それもかなり小さい私だ。誰かに突き飛ばされて頭を強く打った! と私は思い込んでいる。と言うのを思い出した。

予期せぬ、好ましくない状況の中で頭を打ち、今でも脳にダメージを残していると。そして、このダメージを回復させたいと強く思ったのだ 瞑想中に… 。私が何故、クラニオを選んだのか納得がいく。

私が実務的な思考を好むのは、安全だからである。私は感情が苦手なのだ。感情的ではないという意味ではないよ。ただ、物事を考える時、実用的か、そこに無駄はないか? と実質的な考えに留まっていると安心するのだ。だって、エモーションが必要ないでしょ。私の母がめっちゃ、感情型だから、感情というものが怖いの。

… なんて事を瞑想中に考えていたのだ。そう、瞑想中に。



12.04.2015

ブラック・ラティファ Day 1

 Day 1 

Diamond Logos / Black Latifa リトリート、イスタンブール空港で待ち合わせた参加者のひとり、ブラック・ラティファが2回目というカトリーナからその体験を聞いて少々、ビビった私がいる。「ブラック・ラティファがコアでその周りにレッドの壁がどないか、こないか…」と、彼女が話していた。

それは彼女のプロセスに起こったことか、それともレッドが必ずブラックの周りを取り囲んでいるのか、この時点では定かでないが、とにかく、レッド・ラティファのプロセスは私にとって困難だったと覚えている。母親との関係性が無性に私を傷ついた子供に陥し入れたのだ。

私にとってのレッドは未だにコンフュージョンである。もう一度、レッド・ラティファを受ける必要があるかも…ふぇ。何回受けてもいいらしい。それよか、他のを受けているうちにまた同じラティファを受けたくなるんだって。

それはさておき、今回のブラックはボォ〜っとせず、しっかりと取り組むようにと自分に言い聞かせた。困難に出くわしたとき、私はディソシエートする傾向にある。

さて、初日の講義の内容をリマインダーとしてここに書いておくと、Black Latifa は Peace。このラティファのセンターは第3の目、inner see、私たちのdeep water の根源、つまり、ミステリーなのである。

私たちは自分が誰か知っているつもりでいるが、しかし、表面的にである。あなたが眠ってしまったらそこにもう表面的なあなたは存在できない。眠っている間、あなたは自分がどこにいるかも知りえない。それはまるで、死の淵のようでもある。ブラック・ラティファはこの死の淵に行くことを可能にする。

私たちは新しいことに興奮するが、同時に変化することに恐怖を覚える。変化を受け入れることにビビるのだ。このブラック・ラティファでそのことにチャレンジしていく。チャレンジと言っても、優しく、静寂的に、これまでと違った方法で。

その方法とは、馴染みの思考とその思考プロセスにチャレンジしてみるといった具合だ。特に、thinking process。目覚めと共に思考が働き始める。スーパーエゴが何かを企ててエゴを掻き立てる。思考はどんどん忙しく回転し始める。しかし、実際には何ひとつとして目新しくなく、どれもこれもお馴染みの思考、そして、それらはオリジナルではない。(ダイアモンド・ロゴスはエゴ心理学に基づいている。)

思考には2つのダイメンションがある。ひとつは、トラディッショナル・シンキング。つまり、借り物な "考え" である。ジェネレーション的に引き継がれたアイディアや信条など "ある種" 的な考え、人格的で制限された思考体系。そのおかげで自分は "Known 知っている" つもりである。

しかし、借り物なのだから、基本的に不安がつきまとう。疑いが常にあり、知っているつもりでも信じることができない。とは言えど、エゴにとって unknown は許し難いのである。thinking こそが エゴ・アイデンティティなのだ。そして、私たちの考えの素は、そのほとんどが借り物である。故に、決してオリジナルに成り得ない。ここで話しているのは、実務的な思考についてではない。

ふたつ目は、Direct knowing 直接知る、または直接体験する。人から聞き集めた "考え" ではなく、あなたは直接それを知ることができる。それは、体験と呼ばれる。"考え" から脱出するのだ。あなたはそれを知っていると同時にそれを "知る" ことはない。ブラック・ラティファは私たちが知っていると思っていることの下に潜っていくのだ。ミステリーであり、アドベンチャーなのだ。

ブラック・ラティファはPeace 、深みに入っていく。その方法として、慣れ親しんだ思考にチャレンジする。Known  と Direct Knowing は違う。  "知っている" と"直接体験" は別物だ。ブラック・ラティファを妨げるものは busy mind 。間違った方法を私たちはとっている。unknowingness は状態であり、生の体験である。知らない、知ることがない、にとどまっている能力についてである。

と、こんな風な講義を聞いた後でインクワイアリーのエクササイズに入った。インクワイアリーの内容は書かないが、エクササイズの後、自分の思考回路の成り立ちに苛立ちすら覚えるほど、エゴとスーパーエゴの広場になっていた。つまり、蓋を開けてみると、何について言葉を発しようとも、そこにいたのはまさにこの2者である。じゃ、素の私はどこに居るんやと戸惑う。

えーー‼︎  私はいつになったらそいつらから自由になれるのだ! 思った以上に、というか、正真正銘、間違いなく、それは深く深く、こびり付いている。現状の私の思考はそれ以外の何者でもない。そこに居るのは、まるで、社会のコレクティブ・マインドの中で徘徊してる "知ったかぶりの老婆" だ。

良い悪い、恥ずかしい、傷つく、プライド、がんばれ、ほとんどがこの中のどれかに関係している。が、講義にあったようにどれもこれも、人から教えられた判断の上に成り立っている。私という人格がそれを証明するかのように映し出される。なんとも、情けない話である。決してオリジナルな私でありえないのだ。まるで、誰かに刻んでもらったハンコである。

私というキャラクターはいる。でも、違ったブレンド(判断)の寄せ集めなだけで、根本的に他の人とそう変わりはしない。素直に同調するか、リアクションするかの選択は、この寄せ集めたブレンドの法則に従っているだけなのである。

そして、私という人物は素直に同調するかやからではなく反逆的だ、そのなんとか反骨精神が功を成して生きてこれたようだが、すべては体裁の賜物である。

さて、このようなことは、今までに何度も知り得たことではあるが、そこから抜け出れたことはない。私はダイアモンド・ロゴスにそれを期待している。

これまでに、OSHOのおかげでそれを何度か味わったことがある。美しい体験だ。そして、今再び…

再び、Thinking 、エゴ・アイデンティティとしっかりと同盟を結んでいるのだ。古い馴染みの老婆が戻って店先に居座っている。すごく年老いているから、重い腰をもち上げて立ち去ってくれる気配は一向になさそうだ。今、この瞬間のこの時点においても。

社会の中で生きるとはこういう事だ、Unknown は危険だと忠告し、知っていると思い込む事で世渡りし続けようとする。しかし、居心地は悪い。何が間違っている。私はこれだけのものか? 生はこれだけのものか? 

と言う感じで、ブラック・ラティファが始まった。



10.24.2015

でしゃばる者

トルコで継続的に受けているコース Diamond Logos Teaching の3回目を終了して日本に戻ってきた、今回のコースは Green Latif のプロセス。Green Latif はCompassion(思いやり、慈悲)、Love(愛、好意、大事にする) そして、 Kindness(優しさ、情け深さ、親切) の質を持つ。

終わってすぐ何かが変わるとか期待するんですが、そして期待しながら自分を観察しているのですが、そのプロセスは続いている。コースを終えてイスタンブールで友人達と楽しい時間を過ごし、また飛行機に乗って(今回、27日間の間に6回飛行機に乗っている)大阪に戻り、家族と過ごしながら、今、ふと感じたのが "平穏" である。何かがとても平穏でおどおどしている自分がいない事に気づいている。

いつも、自分の問題を騒ぎ立てるのは "私のEGO" ですが、その影が薄い。ちょっとしたほつれ目を見つけるとその糸を引っ張りだし、「ほれ見てみぃ!」とでしゃばる者が居ず、他者の気持ちを受け入れる自分がいる事の方が心地よいと感じている。とても心地いい、不安がなく、手を伸ばせば届きそうな天国がある。

・・・・・あとは、この人生をのんびりと、意義ある毎日を過ごすだけ、かも。



10.18.2015

Diamond Logos, Green Latif

今日が3日目、明日が最終日って、いま気づいたところ。今日、やっと落ちて深く理解するに至った。

ここに至るまで、いつものパターン、Super EGOの抵抗に苦心した。「どうにもならんやろ」と言う声、ワークに対して、ティーチャーに対して、自分に対して。いつも、この抵抗から始まる。

きっかけはなんだったんだろう? 自分を諦めてはいけないと言う声が私を支えてたと思う。退屈しても、そして、いま分かったことだけど、この"退屈"こそがスーパーエゴのアタックやったってこと。

のんびりできる、と、退屈、がごっちゃ混ぜの世界。

エニアグラム7の私にとって退屈 (のんびり) はあってはならないことなのだ。「退屈やなぁ」と言うスーパーエゴのそのひと言に突き動かされ、クタクタになるまではしゃぎまくる7番の姿が想像できる?

コース中に見せてもらった昨夜の映画がとても良かった。あのおばあちゃん、ジャッジのかけらもない。みんなに見せてあげたい映画。

そして、今日、分かったこと、私のエゴに No Judge Pure Compassion  (あのおばあちゃん) や、どんとこい!

Green Latif はCompassion、そして、Love & Kindness というちょっと身構えてしまうクオリティなのだ。私にそんなもんが果たしてあるんだろうか? と、疑っても仕方がない……

Superego にも素直になって見ようと思う。Superego の声に真実も含まれているとティーチャーは言う。きっと、私のバウンダリーを取り除いてくれるだろう。固まった私のエゴを正しく導いてくれるだろう。エクササイズで私は、スーパーエゴはCompassion そのものだというところに至ったのだ。

Superego はジャッジメンタルなだけじゃないらしい。その中に真実もあるらしい。ただ、権力的なフィギュアで攻めてくるのでアタックされ感がある。

私の場合、Superego と母が重なっている。なので、Superego に耳を貸すと、そして、その言い成りになると言うことは、私の負けとなり、それだけは、絶対に避けなければならないと言う子供の私がいたのだ。つまり、私のエゴの振る舞い。

スーパーエゴに真実が含まれていようがいまいが、言うことを聞いてはいけないのだ!とエゴが立ち上がって「えいえいおー!」と踏ん張る。耳を貸さないことでリベンジしているのだ、誰に? きっと、母親に。

Green Latif で、私のディフェンスメカニズムについて いろんなことが分かった。

Green Latif は良い、ヒーリングが起こる。Green Latif はとても深く、最も隠されたエッセンスだとティーチャーが言っていた。私もそう感じることができた。

っで、Osho の言葉を借りると、とどのつまりsurender なのだ。
"あぁ〜 ぁ" っとぉきたもんだ… (  ̄ー ̄ )ゞ



9.25.2015

Istanbul 空港でのノウガキ


このエリアに流れるゆるやかでかったるい女性ボーカルのBGMが眠気をそそる。関空からインドのデリーに向かう途中である。なぜ、イスタンブールで乗り換えか? は、今は面倒なので後回し。

とにかく、デリー行きの飛行機まで12時間とたっぷりある。この間、街に出てイスタンブールを吸収しようか? … 本当に街に繰り出すのか? … と考えに考えを重ねたが、"面倒" という思いの方が強かった。しばし座って考えたあげくイミグレーションから出て街に向う電車に乗るという考えに腰が立たない。ゆえに!国際線乗り換えエリアに入るバックチェックに向かったのだ。

だが、12時間は長い。飛行機待ちの人がごった返す空気の悪いこの場所で…ふぅ〜…とりあえず、より静かを期待する2階のコーヒーとスナックの店に落ち着いたところなのだ。ここは時間があり過ぎる人がのんびりと時間をやり過ごしているように見受けられる。つまり、私のような人達だ。待ち時間の一番長い人は誰か聞いてみたいものだね。

前の私だったら12時間もあればたくさんのことができると考え、間違いなく街に繰り出していただろう。12時間、見逃すものがないぐらい限られた時間の中で歩き回っただろう。興奮が私に活気を与え、次から次へとやってくるアイディアに身を震わせる。それが私なのだ。

しかし、この頃は"減速" したいと思い始めているのだ。これまではとにかく四方八方360度に手を伸ばそうとしていた。知りたい事が沢山あった。その中で、未だに続けられていることがあるのは幸せである。ひとつの事を続けることの利点は正確さと自信がつくことである。そしてさらにその良いところを明確に洗練させていきたいと思い始めてくるのだ。

それ以外に知った重要な幾つかも、このひとつの中ににどう取り入れていくかに集中力がいり、どうやら私は、今がその時期のようだ。集中するには内に向かわなければならない。集中は莫大なエネルギーが必須であり、私にそんなに余力はあるのだろうか? と思う "この頃" である。しかし、これまでやってきた事の結末というか、最後の締めというか、それはどんな花と実をつけたのかを知るにはやるしかない。

こんなあんなのノウガキたれても…
あ〜‼︎   あと、10時間はたっぷりある!

9.09.2015

愛、最後の課題

今、トルコで行なわれているダイアモンドロゴスという
ワークショップに参加している。
5回に分けての流れの中で自分と向き合うリトリートで前回が2回目。
(*ダイアモンドロゴスについては下に記載。)

2回目を終えてから現在にいたるまで何故か居心地の悪い私が居る。
まぁ、そのへんはいろいろあるがまた書ける時に・・・

で、次の3回目が迫ってきているからドキドキするのと、
微妙な期待もあって、日常生活のなかで自分を見失わないように見張っている感じ。

数日前に私自身のクラニオバイオと言う本業でコースを終えたところ。
最終日はいつもアシスタントさん達と一緒にご苦労様ご飯にいく。
そのとき、私たちはよく自分に起こっていることなど話し合ったりする。

「で、こまちゃんはどぉお?」って聞かれて、
「そうね、ダイアモンドロゴスのプロセスで落ち着きが悪い感じ・・」

みたいなこと言っていたのですが、実は・・・・
その後に、ホテルに戻ってすごい気づきがあったのだ!
(なんか、こんな話しが出来ちゃう友人に感謝、
理絵ちゃん、あやちゃん、きょうこちゃん、ありがとう)



私に足らないもの、喉から、手が出たいぐらいほしいもの、
それは 愛。

近頃、特に、前回の2回目が終わってからですが、
ますます - 私はきっと自分のことしか考えていないのだろうと思い、
自分が嫌いになりかけていたのだ、あきらめに似た感じも伴って・・・

特に母親に対して敏感にリアクションをしてしまう、した後は苦しい。
私もそうかもしれないが、母親も私に対する態度が悪い! 
なんて怒ったりもするが、基本的には自分に対して落ち込む。

でも、私が怒ってリアクションするその一瞬前は
怒ってるんじゃなくて悲しいのだ、
"愛されていないと思い知らされた!" という一撃をうける・・・

ってことは???

悲しいと感じたその瞬間に私は、私の "愛" に触れた・・んだ・・・
その一撃が私の愛に触れたんだ・・・

と言うことは、私に愛がないのではなく、
触れることの出来る愛がそこにあったんだと気づいた。

ああ、私に愛があったんだ、そうか、
よかった・・・あったんだ・・・

すると、妙なもので "悲しい" と知覚した時、
私は、自分の愛に触れているんだと知った。

リアクションするよりもそのことの方が
とっても大事に思えてきた。

きっと、母もそうなんだろう、
彼女自身のリアクションするその一瞬前、
彼女も彼女の愛に触れたんだ・・・

ただ、私たちは触れた愛を理解するほどの器が育っていず、
未体験の大きな何かに飲み込まれることを恐れ、
ついつい、エゴがフリークアウトして真逆のアクションに導かれる
そして、落ち込む・・・何かがおかしい・・・あれ?
なぜ、こうなっちゃう?

その仕組みが分かったような気がする・・・
この理解と一緒に留まっていられるようにと - 祈る私 - がいる。

痛い時、私は、私の愛とともにあり、
その愛のなかに静かに入っていきたいと祈る私がいる






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Diamond Logos Teachings


ダイアモンドロゴス
Introduction to the Diamond Logos™ Teachings
ダイアモンドロゴス・ティーチング
Diamond ダイアモンドには精密さ、正確さの質(生来の)があります。Logos ロゴスは言、原初の言であり、要素からなる表現や音調を持ちます。ここでのTeaching  教えは私たちの能力が再びエッセンスとつながることを妨げる心理パターンを理解します。
ダイアモンドロゴスはtrue self(真我)または Being(本質)を取り戻す特殊なプロセスです。この教えを通して偽りのパーソナリティやエゴーアイデンティティを理解し、自己の本質的資質を識別する能力を意識的に育てるにつれて、私たち自身の尊い性質やそのたくさんの現れを認識し始め、ひとつに統合することを学びます。
創始者 Faisal Muqaddam
ファイサル ムクゥアダムダイアモンドロゴス ティーチングスの 創始者 Faisal Muqaddam は A.H.Almaas と共に自己解放のための Diamond Apprach(ダイアモンドアプローチ)を発展させた創始者でもあります。現在、スピリチュアル心理学ティチャーである Faisal 自身の精神世界の旅は1968年から始まり、1973年から教えに専念するに至りました。それ以来、彼のもとにやってくる人々にグループリトリートを行い、中近東、アメリカ、ヨーロッパでは公開トーク、プライベートセッションは40年続けられています。
Faisal は1946年にクゥエートで生まれました。Dr. Phillip Curcuruto によって Reichan Therapist として訓練を受け、また、尊敬する Tarthang Tulku Rinpoche 、Dr. Claudio Naranjo や 中近東のスーフィの教師などからも成長のための異なるシステムについて学びました。現在は、彼自身のプラクティス、そして、それらをカリフォルニアとヨーロッパで教えています。
ダイアモンドロゴス ティーチングの紹介
このワークは ラタイフ Lataif と呼ばれるスーフィーのエネルギ-システムと洞察的なモダンエゴ心理学が統合し、私たちの生来的なEssence(本質)を回復させることを目的とします。
私たちのアプローチは真我 True Self にたどり着くことです。真我は私たち人間の本質的土台ですが社会環境のなかで成長するに従ってそれぞれの個人が何らかの理由で Essence に触れる、直接体験することが難しくなっています。この “何らかの理由” を知ることで私たち自身に深い理解が起こり、自己防衛的なエゴ、人格を確固たるものに仕上げるスーパーエゴによって本当の自分を見失わない真我にたどり着いていきます。
ダイアモンドロゴスのような心理学的様相を持ったワークでは本当の自分を発見していく過程で問題が浮き彫りになっていきます。生来の質である5つの Lataif に取り組み、どのように私たちの Essence がカットオフされたか、または成長しない状況が起こったのかを知ることになります。
Essence はスーフィーのシステム Lataif を参考します。5つのラティファ、White/Red/Green/Black/Yellow です。この5つのラティファは生来の質であり、私たちの自然な状態です。
この生来の質を直接体験することが難しい場合、そこに何らかの理由が存在します。ここでのワークはこれらの本質的資質と能力を取り戻し回復させていきます。 True Self 真我との関係は真のパーソナリティ(人格)を成長させ、その、我が家に帰還する内なる旅の副産物として着実に問題が解決し、偽りのない幸福を感じ始めることができます。
このワークは心理学的なワークに留まらず、深い気づきの状態が起こり続けエンライトメントへの架け橋となるでしょう。どれだけ多くの私たちが “無意識的人格” に悩まされてきたことでしょうか、そして、多くの瞑想者が真我とこの無意識な人格の間を行き来し、開かない扉を前で呆然としていることでしょうか。ダイアモンドロゴスはここに目を向けています。

私自身が教えている クラニオセイクラル・バイオダイナミクス の 施術者養成コース(10モジュール)も期間的に長く1年半〜2年に渡りますが、 私がオーガナイズする ダイアモンド・ロゴス・ティーチングス も 次回の Group2『7...