「すべての現象は夢のようなものである」
思考が働いている、思考が働いていない、ぐらいは観察できる。その思考と思考の間のギャップも体験できる。でも、夢と夢の間はあるか? それとも夢はずーっと続いているのか?
思考と思考の間のギャップ、そこにほんの少し、本当にほんの少しとどまることは出来る、が、そこから先は私の範疇になく、神のみが奇跡を起こす事ができる。
で、地団駄を踏んでいる私は、思考がないときも、私自身のエゴにフックされている、人格 (つまり、"私が観察している" ) が私の前に立ちはだかって、奇跡は起こりそうもない。
エゴと人格は同一なのだ。だから、ただ、エゴと言うよりは、もっとシステマティックに機能している、それが人格なのだ。
人格を支えているそのほとんどが無意識層にある、で、お手上げである。混沌とし、一貫性がない。意識はその表面を繕う役割を担っているだけ。
わたしが思うに、無意識には弱点がある。そう、痛いところをつねってやる。すると、地獄の底から簡単に流れ出す。
無意識には策略がない、策略を企てるのは体裁を繕う意識である。無意識は体裁や策略がないので意識が恥じるのだ。
これと、夢に落ちるは一緒だろうか? すると、無意識も夢だろうか? このコンテキストでの意識は夢であることに違いない。繕う自体、自然ではない。
無意識は? 私は無意識を理解しているか? 無意識って貯蔵庫のようなもの? 夢の材料を蓄える貯蔵庫のことか? 混沌として、一貫性がない。
それが出てくるとき、何らかの質を帯び、一見して意義がありそうに見えるが、根本的にはただのエネルギーのように思える。
意識より無意識の方が面白そうである。偽らないから真実に近い。意味を持たず、エネルギッシュだ。この無意識の中に、目覚めた状態で入っていくことは出来るだろうか?
それが、まずは、夢の中で目覚めているという事にならないだろうか? では、どうする?
at least 無意識な中に目覚めているようにする、私にとって、夢の中か外かの? 助太刀になるかもしれない。
「すべての現象が夢のようである」に意識的にいるのは、広大すぎて、ぼんやりしてしまう。夢か、夢でないか、まったくチンプンカンプンだ。
夢は思考がないときも起こっているようだから、夢を支えている無意識に要注意しておく事にする。意識は形が見えるから注意しやすいけど、無意識は捉えどころがないから、ちょい難しい。
--- dear 奇跡が起こった人の意識、ボーディチッタ、釈迦の意識、I am trying some to reach you ---
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