6.16.2016

夢の中で目覚めている

























以前のブログに、 ”夢の中で目覚めている” を
覚えていくことにしたと書いたよ。

それはどうやってできるのか定かでなかったんだけど、
今、ようやくその感じがつかめてきた。

日常の生活の中で、特に周囲の状況や人との関わりの中で
それを明らかにすることが出来るのがわかった。

それにはまず、自分の状態をずーっと観察し続けているのが前提で、
周りの状況や人と関わるときに "自分の何が変化するか" を見ている。

例えば、

外に向けての反応(エゴ)は控えるといいですがそうもいかなかった時、
ちょっとしたくだらないコメントをしてしまう時ってあるよね

自分が起こしたそんな反応に、これまた、自分がどう感じているか、
居心地が良いか、悪いか、何がそうさせているのか? 見ている。

自分の反応に対する優越感、自己反省や自己批判、また解離などは、
勝手に起こるのでそれをただ観ている。

こうすることで、無意識に、
または夢に目覚めていることができるとわかった。

分厚い雲に囲まれている
雲を蹴ちらかそうとするとさらに厚い雲が押し寄せてくる

そうならば、どんな雲かみていよう
どのように動き、どのような弾力があるのか?



前に書いた、

-- 無意識には弱点がある。そう、痛いところをつねってやる。
 すると、地獄の底から簡単に流れ出す。

-- 無意識には策略がない、策略を企てるのは体裁を繕う意識である。
 無意識は体裁や策略がないので意識が恥じるのだ。

-- それが出てくるとき、何らかの質を帯び、一見して意義がありそうに見えるが、
 根本的にはただのエネルギーのように思える。

-- それが、まずは、夢の中で目覚めているという事にならないだろうか?
 では、どうする? 



6.09.2016

エゴを脇におき、静かにいる


今回の Faisal meeting で私に決定的なことが起こっていたのは、静かでいるとき、何であれ、静かに観ている時だった。そして、観察のプロセスがいかにパワフルであるかを体験した。

これまでも、瞑想で静かでいることをしてきたし、インクワイリーで観察もしてきた。でも、そのどこかに、観察の中に、ワンダリングがあった。インテンスに観察している "私" がいた - といった感じ。

今回、そのワンダリングが消えた。本当にただ観察しているだけ。この違いは大きい。"観察している私" と言うより、"観察の状態" がそこにあったと言うのが正しいだろうか? うまく説明できないけど…

ワンダリングがないという事はどんな期待もない。とてもとても控えめな状態だった。私は、私自身にお手上げで、最初のうちにエゴをとにかく脇に置いておくようしてみた。

エゴを脇に置き、ただ、静かにしていると、周りのすべてが違っていた。最初は気づけなかったけど、途中で自分が、あらゆる面でとてもリラックスしていることに気がつき始めた。

Ameno から Milano に移動した翌日、朝起きた時から夜まで、友人に会っていても、食事をしていても、目をつぶればすぐに寝てしまえるほどの睡魔がそこにあった。つまり、どの瞬間でも目をつぶれば眠れるという奇妙な状態。

それは頭だけでなく、体と私の存在全部が眠りに吸い込まれそうなぐらいの勢いで、こんな種類の睡魔は初めてと思う。前日もその前々日も睡眠は十分とっていたのに。

今から思うと、静かな観察はずーっと続いており、この慣れない長時間の意識的な状態に無意識が耐えれきれず、眠りを誘っていたのかもしれない。何となく、腑に落ちる。

付け加えると、この意識的な状態はとてもソフトでインテンスな観察の状態とはまるっきりかけ離れている。まるで、何かに優しく包まれているような感じ。

そう思うと、私に起こっている事はただ事ではないと分かる。これはもちろん、Faisal とその meeting  group の影響なのは間違いない。Faisal と共に静かに座る瞑想が何度かあって、その時の Faisal はとても深く静かで澄んでいた。

彼は私のすぐそばに座っていたけど、その存在が消えていたし、彼のどんな欠片も見つける事はできなかった。ほんの数秒、何度か戻ってきたようにも思えたけど、またすぐに消えていった。そのことが、私に影響を与えないわけがない。

エゴが活発だと、私たちは何も語らずともうるさい存在となり、その人といるだけでとても疲れてしまう。逆にエゴがないと、さざ波のない湖のように静かで透明感がある。

私はこの静かな湖の中にゆっくりと引き込まれていったように思う。例え、私のマインドがまだ漂っていたとしても。

実際、その時、私のマインドは漂っていた。だから、漂うぐらいの控えめなエゴはあった。そして、エゴの漂える層から静寂を覗き込んだ。

自分以外の point of light (ここでは Faisal だが) が深く潜っていたので、私もその深淵を覗き込むことができた。

この体験は私の瞑想の質を変えたように思う、何が? と言うのは言葉にできないけど、つきまとっていた何かがなくなったような感じ。

しいて言えるなら、 I am no one のスペース だと思う。私が誰でもなければ、エゴはとても控えめでいることができる。



6.08.2016

Faisal に言わせると


Faisal に言わせるとこの世界はパラダイスである。

どれほど昔のことか知らないが、何十億年? (137億年前) もかけてこの宇宙が発展し、沢山の星が生まれ、その中でも最も美しい地球に人類が誕生し、花が咲き乱れ、鳥はさえずり、海の中では魚が沢山泳いでいる。this is a miracle! 

そして、ヒトはそれを目撃できる目を持ち、聞き、味わい、体験することの出来る体を持つことができた。This is a miracle! You are in the paradise ‼︎

と、 Faisal は言った。

確かにそうかもしれない。 そして、このパラダイスがパラダイスでなくなったのはいつからで、どうのようにしてそうでなくなったか? が、私たちの知りたいことである。

何であれ、周りの環境と大人達 (特に両親) によって、子供は 7〜8歳ごろにはすっかりエッセンスと切り離されてしまう。つまり、本来持ち合わせた能力を否定され、その代わりに条件づけの社会性を植え付けられて、自分を見失ってしまう。

子供は深く傷つき、無意識の代償として体に緊張を持ち始める。例え、大人になってそれに気づいたとしても、心を開くのに大変な時間がかり、深い問題の中で見失い、ある種の痛みは感じなくなっている。

あなたがそれをほんの少しでも開こうとするなら、あらゆる方面の痛みと混乱が生じる。だから、明確な方法で、ひとつひとつを理解しなければならない。それゆえ、5つのラティファ (5つの本質的資質) から始めるのが良い。

私はこのダイアモンドロゴスと言うワークはとても効果的にそれに働きかけることができると実感している。そして、エニアグラムの fixization はそのとっかかりにとても役立つ。自分のエゴストラクチャーのあり方であり、無意識の振る舞いと防御機能の上に成り立っているから、知っておいたほうがもちろん良い。

エニアグラムの9つのタイプ以外に、3つのベーシックがある。ソーシャル、セックス、サバイバルのどの傾向にあるか? 

ソーシャルは、人のいるところに出て行くべきか? 隠れ潜んだいるか? セックスは、セックスすべきか? しないべきか? サバイバルは、食べるべきか? 食べないべきか?  ちょっと簡単すぎる説明だけど、私自身と言えば、ソーシャルがベースだと思う。

と言うのも、社交性に欠けている。一人でいるのが好きなのだ。どんなオケージョンでも、いつもそのことを考えている。人と一緒に行動すべきか? もしくは、帰って自分の時間を楽しむか?  よっぽどのことがない限り、後者を選ぶ。

enough for now .....




6.06.2016

"知る" こと


Faisal が Family Hole と エニアグラムの fixization について話してくれた。生まれてきた子供は、何とかして家族の穴を埋めようとする。家族に欠けているものを埋めようとするんだそうな。

ある家族には愛、ある家族にはグランディング、ある家族には力、ある家族には知識、ある家族には成功を、こどもは欠けているそれ自体になろうとし、それを家族に与えようとする、が、不健全な家族に受け入れられもせず、何度も何度も失敗してしまう。

私はなぜ、7番なんだろう? 私の父と母、特に激情的な母の見ているメロドラマの中で育ったようなもので、私は母の感情が怖かったし、ゆえに、感情とは恐ろしいものだと受けとった。

そんな激情ドラマを子供の私が理解できるはずもなく、混乱し、かなりディソシエートした子供であった。どちらかと言うと夢みがちな。夢の中へ逃避し現実に触れないようにしていた記憶がある。

当然、子供の私は現実の中で夢のような冒険をすることはできない。今でこそ、人が羨むほど自由に動き回っているが、それは、現実からの逃避を実践できる年齢になってからのこと。今の私の自由は、夢の続きから発生したようなものである。

もひとつ、私は心理的にかなり混乱していた。もし、マスターに出会っていなければ、きっと、気違い染みた人間になっていただろうと想像できる。私はOSHOに救われたのだ。

私は彼の知識と知恵をどんどん吸収していった。OSHO は、私の混乱を溶いてくれた。これが、"知ること" である。自分に起こっていたことだけではなく、それ以上のことを知ることができた。エンライトメントと言うとてつもない可能性について。

それは、特別な人にだけ起こるのではなく、そして、高い高い山の天辺にあるのでもなく、自分自身に戻ることであると教えてくれた。我が家に帰るのだ。ここに I am No One. があった。

エンライトメントそれ自体が治療であると私は理解している。それは宗教でもなく、ましてや政治でもない。エンライトメントは深く深く安心して我が家に留まっていることである。

私には "知ること" が必要だったし、知識は感情に比べて安心できる tool だった。知識と理解が知恵を産み、私を救ってくれたのだ。

私が思うに、7番は感性的にも敏感である。内なる感情はとても豊かだ。7番に沢山のアイディアが浮かぶのはそのせいである。成熟した7番は自分が見つけた宝を美しく育て上げる力を持っていると私は思う。

私の自由は、夢の続きから発生したが "知ること" で夢から覚め、現実の中でそれを実践することが出来るようになった。そして、知ることでとてつもない喜びを感じている。私にとっての "知る" は体験の一部であり、理解が起こった瞬間、この体験のピークに達する。脳内ホルモンがドビュっと出る瞬間だ!  (⌒▽⌒)



6.04.2016

No one is there































何かがおかしい、かといって今までの私はこうじゃなかったのかと言えば、私は以前と変わらず、まったく同じ私である。

point of light の後、ずーっとこの調子で、とても居心地が悪いのだ。ゆえに、私は前より増して自分をずっと観察するようになった。

言動、振る舞い、自分のすべての行動をずーっと観察し続けている。居心地の悪さに対する答えを探し出そうとするように。

ダイアモンドロゴスミーティングの2日目、ランチの後、レクチャー前のダンスで 「はっ?」が起こった。

その閃きは、私は自分が "誰か" であると思い込んでいた。 事実、私は自分ではなく、誰か (パーソナリティ) を生きている。

ああ、なんてこった! ブルータス、お前もか!

この閃きはこの言葉で起こったのだ
 I am No One,

私は誰か (パーソナリティ) を生きていた。でも、真実は、私は誰でもないのだ!

なんという事だ、I am no one !!!!!!!
ブラボー ‼️ 🎉



ランディング

Faisal は、ダイアモンドロゴスミーティングの初日のほとんどをオリエンターションにつぎ込んだ。

長くワークに携わっている人、新しい人が混じっているらしく、ザワザワして、わぁ、こりゃ大変だなっと思ったけど、2日目になって分かったのは、人の事より、私自身がぜんぜんランディングしていなかったのだ、ははは。

Faisal は、私の想像を超える忍耐があった。それほど、私たちはザワザワしていた。出発する船に乗船した私たちは、2日目の今日、ようやくそれぞれの居場所を見つけたようである。

2日目の驚きは、Faisal は何とパワフルであるか! しかも、いろんなレベルにおいて。ああ、本当に来れて良かった、どんなに自分自身に居心地が悪くても、ここに私の居場所があったんだと深く安心できた。私はここに連れてこられたのだ。来るべきところに、呼ばれて来たんだと知った。

今年の一月、中国で受けた point of light 以来、私は不安と共に自分を見失っていた。コースの後の最初の1ヶ月ほどは "とてつもないもの" が開き、興奮し、ハイになっていたんだけど、そのあとが、始末の悪い事に、何が何やら分からなくなってしまっていた。

で、その後、ずーっと居心地が悪く、なんであれ、自分を観察しているしかなかったし、私の人生はこれで終わるのか? と言うほど不安があった。だから、今回、Faisal に会いに来るモチベーションもなかったのさ。

今日、Faisal はチャンティングの後、レクチャーに入った。とてもエキサイティングなレクチャーで、彼の話を聞き逃さないように注意していても、内容が濃すぎて、また、スピードがあり過ぎて、ある瞬間、私は理解するのを諦めた。すると、何ということだろう、理解するのをやめた途端にそれが起こった。



自分がある状態のスペースにいると気がついた。レクチャーの内容はどうであれ、彼の存在が物凄くパワフルなのに気がついた。なんと凄い人だ!と、で、その瞬間、トランスミッションが私に起こっていたのだ! 

彼のレクチャーが、とても興味深い話に加えて、それを理解しようがしまいが関係なく、奥の深い所にどんどん変容が起こっていく。まさに! わぁお!!!! だ。

理解しようと努力している時はそれに気づかず、頭を落とした途端、それに気づいた。

そう言えば、初日もそうだった。Faisal  と一緒にサイレント瞑想にいた時、私は私のマインドといたし、周囲の人のマインドもざわついていたのを知っている。なのに、Faisal はと言えば、瞑想の間、まるでそこに誰も座っていないかのように消えていた。

彼の席に "空" があった。もちろん、私は目を瞑っているし、彼がどうしているか確かめることはできないが、そこに気配もなく、彼を見つけることは出来なかった。

数回ほど、ほんの数秒だろうか、彼は戻ってきたように感じられたが、すぐにまた消えていった。レクチャーであれほどパワフルな人がこんなに 空に近いほど消えることができるんだとびっくりしたのを覚えている。

ともあれ、彼のおかげで、本日、私もようやくランディング出来たようだ。



6.03.2016

アティーシャの呼吸の瞑想

「とても深くゆるんで、リラックスすることだ」アティーシャの知恵の書の中で和尚が使った言葉。クラニオバイオにそれがある。

「しがみついたり、執着したりしないこと、従うのではなく、知るのだ」と続く。私たち (クラニオバイオ) の「介入しない、巻き込まれない、ただそれ (タイドモーション) と共にある」がこれに当てはまる。

人は夜眠りに着き、やっと自分自身からも解放される。夢のない深い眠りの中では抵抗する者がいなくなる。

そして、人体には、そのすべての活動を統合する律動的で微細な波が横たわっている。クラニオバイオの施術者はこれを調律する、言わば、楽器を調律する調律師のようであり、また、この微細な波は体を体を治す力を持っている。

施術者はその力が最大限に活かされるように自らがその波に従う従事者となる。詳しくはまたの機会としてここで書くのは控える。

「とても深くゆるんで、リラックスすることだ」私はこの言葉を何度も自分に問うてみた。この言葉の中に入ってみた。最初に起こったのは、先を急ごうとする思考が私をこの問いから遠ざけようとする。次に… 体の感覚や状態に入っていく。

落ち着いて体の感覚に入っていくと、ピクピクしたり、ねじれの解放でグルンと動いたり、箇所に手を触れずとも、この問いと共にいるだけでクラニオバイオな体があった。

しばらく、心臓の音を聞いていた。先を急ごうとする思考もそこにあった。次は何? 次は何? と私を急き立てる。

「すべての現象は夢のようなものである」そう、思い出した、今回の旅の間、私はこの事に従事しておく事にしたんだ。私がここでこうしているのも、夢のようなもの?

 「とても深くゆるんで、リラックスすることだ」

これを続ける。この問いは、どんどん私を今この瞬間へと導き始める。同時に、居心地の悪さがマインドを介入させ、私を "今" から引き離そうとする。

アティーシャの瞑想について和尚が話していた。「初めてアティーシャの呼吸の瞑想に取り掛かるには、世界の苦悩よりまず自分の苦悩から始めなさい。苦悩が起こったら、それを呼吸する、苦悩を吸い、喜びを吐く」。

思考に耳を貸さないように気をつけながら、体や気持ちの居心地の悪さを呼吸で吸い込む。この後の喜びを吐く、は簡単ではない。喜びを探さなければならないと気がついた。しばらくして、感謝なら思い出すことができると分かったので感謝を吐くことにした。

しばらく、この呼吸を続ける。後で、この呼吸にはプロセスが起こると分かった。呼吸を始めてすぐ数回目の吐くで涙が出た。その数回後、とても未熟な感謝だと分かる、吐くは感謝にとって変わって「未熟な感謝をお許しください」と許しを乞うに変わった。

そして、吐くたびに、感謝と乞うは、思考へと傾いていった。どうやら、私は、本当の感謝が起こるまで、この呼吸を続けなければならないようだ。

「すべての現象は夢のようなものである」
「とても深くゆるんで、リラックスすることだ」
  そして、 アティーシャの呼吸法、この3つを続ける事にした。


6.01.2016

夢の中、夢の外

「すべての現象は夢のようなものである」

思考が働いている、思考が働いていない、ぐらいは観察できる。その思考と思考の間のギャップも体験できる。でも、夢と夢の間はあるか?  それとも夢はずーっと続いているのか?

思考と思考の間のギャップ、そこにほんの少し、本当にほんの少しとどまることは出来る、が、そこから先は私の範疇になく、神のみが奇跡を起こす事ができる。

で、地団駄を踏んでいる私は、思考がないときも、私自身のエゴにフックされている、人格 (つまり、"私が観察している" ) が私の前に立ちはだかって、奇跡は起こりそうもない。

エゴと人格は同一なのだ。だから、ただ、エゴと言うよりは、もっとシステマティックに機能している、それが人格なのだ。

人格を支えているそのほとんどが無意識層にある、で、お手上げである。混沌とし、一貫性がない。意識はその表面を繕う役割を担っているだけ。

わたしが思うに、無意識には弱点がある。そう、痛いところをつねってやる。すると、地獄の底から簡単に流れ出す。

無意識には策略がない、策略を企てるのは体裁を繕う意識である。無意識は体裁や策略がないので意識が恥じるのだ。

これと、夢に落ちるは一緒だろうか? すると、無意識も夢だろうか? このコンテキストでの意識は夢であることに違いない。繕う自体、自然ではない。

無意識は? 私は無意識を理解しているか? 無意識って貯蔵庫のようなもの? 夢の材料を蓄える貯蔵庫のことか? 混沌として、一貫性がない。

それが出てくるとき、何らかの質を帯び、一見して意義がありそうに見えるが、根本的にはただのエネルギーのように思える。

意識より無意識の方が面白そうである。偽らないから真実に近い。意味を持たず、エネルギッシュだ。この無意識の中に、目覚めた状態で入っていくことは出来るだろうか?

それが、まずは、夢の中で目覚めているという事にならないだろうか? では、どうする? 

at least 無意識な中に目覚めているようにする、私にとって、夢の中か外かの? 助太刀になるかもしれない。

「すべての現象が夢のようである」に意識的にいるのは、広大すぎて、ぼんやりしてしまう。夢か、夢でないか、まったくチンプンカンプンだ。

夢は思考がないときも起こっているようだから、夢を支えている無意識に要注意しておく事にする。意識は形が見えるから注意しやすいけど、無意識は捉えどころがないから、ちょい難しい。





--- dear 奇跡が起こった人の意識、ボーディチッタ、釈迦の意識、I am trying some to reach you ---

私自身が教えている クラニオセイクラル・バイオダイナミクス の 施術者養成コース(10モジュール)も期間的に長く1年半〜2年に渡りますが、 私がオーガナイズする ダイアモンド・ロゴス・ティーチングス も 次回の Group2『7...