10.15.2013

チベットの生と死の書(1)

「私と介護」という題でブログを数回書いたからだろう、
知り合いが『チベットの生と死の書』は
どうですか・・・と教えてくれた。

この本のことは以前から知っていたが、
人の感想やコメントなどを通してであり、
自分で読んだことはなかった。

そうそう、前から読んでみたかったのに忘れていたんだ。
早速、購入し、今日から読み始めた。

読み始めたのは・・・
検査のため父を病院に連れて行った待合室から始まる。

その前に

昨日、Amazonから届いて段ボールを開けてみると、
この本を手にしたサイズがなんだか聖書のように小さく分厚い、
すでに私のお気に入りとなる予感がしたんだ。

『チベットの生と死の書』
The TIBETAN BOOK OF LIVING AND DYING
by Sogyal Rinpoche

病院にいたので、前書きのすべてを飛ばして本題から読んだ。
前書きには「ダライ・ラマ法王による序文」も含まれる。
興味はあるが、後で読むことにした。

第一章「死という鏡」
題からして "who is in 瞑想(クリック)" を続けている私は "的に一直線" と直感。
もう、この本は私の側から離れないと分かった。

待ち時間の間、48ページまで進む、ここまでは、
著者 ソギャル・リンポチェ(修行僧)の柔らかいかたり口調で
仏教の死についての世界観を少しだけ垣間みることができた。

ソギャル・リンポチェが同じ修行僧の死の床に直面した体験、
仏教が考える死について、西洋との違い、死と向き合うなど。

その中に、以前から私の心をとらえていた言葉 "バルド" が出てくる。
それが何のことか以前は不明であったが、ここに明確に記されている。

バルド・・・「バルドは生と死を通じてつねに絶え間なく起こっている。
そして、それは解脱の可能性が、覚醒の可能性が一段と高まる連続なのである。」

と、記されている、これを読んだとき、私は私の本業、
クラニオバイオダイナミクス(クリック)と言う手法を使って知覚する
ブレスオブライフのことを思った、「間違いないだろう!」っと。

私は確信を持って、私が来た道、私が選んだ学びの手法が、今、
結ばれて統合されようとしていることを知った。

それに父の病状は不可欠だったのだ。
もし、親密な誰かが死に近づいていなければこの本は
まだ、私の手元にやってこなかっただろう。

インドでマスターに出会い、長年、瞑想し、
セラピーによって人間の心理や健康について学び、
それらを通して、人間の本質とその価値が解き明かされ始める

そして、この本が私の所にやってきた・・・

到達する地点はない。
流れているのだ、死が訪れようとも、その後も。

この本の中に

「死を恐れる最大の理由は、自分が誰か知らないことにあるのだろう。」

とある、自分で思い込んでいるすべての自己認識が取り除かれて、
そこに残るもの・・・それが本質だとも。

この本を読み進むことにドキドキしている。
これを理解するのは、死の床にある者か、
もしくは、瞑想の道にいる者だけだろう。

チベットの生と死の書についてブログが続きそうなので、
これを(1)とする。















10.14.2013

私と介護(3)遠出ドライブ

熱も下がり、だんだん元気を取り戻してきた父、
介護疲れでくたくたの母、この2人を誘って、
今日は・・・何とかドライブに連れ出すことに成功 (にっ!

父を車いすに乗せて散歩できる奈良公園など良いかと思ったが、
母が海を見たいと言うことで、明石海峡にむけて走ることになった。

トイレが近い父のことが少し心配だったが、
介護ファミリーになって感心したことは、
あちらこちらのトイレに車いす専用の個室トイレがあったこと。

そして、車いすを乗せた車はトイレのすぐ横に特別駐車できる。
ああ、なんて日本は至れり尽くせりなんだろう (^^)
その意味でストレスなく、安心してドライブを楽しむことが出来た。

帰りは事故のため、もの凄い渋滞に巻き込まれたが、
別ルートに逃れて何とか脱出。

大阪からはるばる明石海峡を超え、鳴門海峡も超えて、
お寿司を食べて帰ってきた・・・・

まあ、父が遠出のドライブ出来ると分かったことで、
・・・・・良しとするか。




10.12.2013

私と介護(2)父の誕生日

昨日は、父の86歳のお誕生日。
介護必須で毎日を過ごしている父は複雑な気持ちに違いない。

本人だけが感じている繊細な感情の葛藤に
私たち家族はどこまで近づいてあげることが出来るだろう。

介護する側もいたって人間的である。
昨日と今日、午前と午後、そのつど気分は変化する。
心のゆとりは健康的な体に起こるのだ。


「気づきとともに中心へと浸透するのだ」とOSHOが囁く。

  リメンバー、ユー、アー、オンリー、ウォッチャー
  体でもなく、マインドでもない。

  鏡だけがジャッジなく反射することが出来、
  池の中に月が清らかに反射される



写真の中の父は何を反射しているのだろう。





9.26.2013

介護と私 (1)

この話は、誰も興味を示さない話だろう。面白くも可笑しくもない。ただ、私自身に起こっている "介護する" という現状について心のままに、嘘偽りなく、書きたいと思う。と言うことは読まれて私に対する偏見を持たれる可能性が生じる。しかし、書いてみようと思う。そして、いつものように twitter を通して facebook に流すのだ。

ちょっと勇気がいるかもしれない。しかし、書くことで自分の気持ちを改めて確認し、見つめたい。そうでもしないと心のバランスが崩れそうだ。時には変なことを考える私を客観的に眺める助けになるだろう。そして、私は "マザーテレサ" ではない。

 "介護" とは、まったく自分の心を写すものであると理解した。父が緊急入院して依頼、家族は彼に付きっきりである。今は退院してもうすでに3週間ほど過ぎただろうか、自宅での介護である。病院は完全介護なのに入院中は個室が空くと交代で宿泊し、家族の誰かが常に彼に付き添っていた。うちの家族はやり過ぎと言うことを知らないようだ。

手術後はもう駄目かと思った。心臓の動脈弁閉鎖症で心膜内に2Lほどの水がたまっていた。水は抜くことが出来たが問題の閉鎖症の手術(一時的に心臓を停止させる)はあまりに大掛かりで、高齢であり、また、肝臓がんの父にはとても施すことが出来ない。術後、2週間ほどは食事も飲み物も口にせず骸骨のようにやせ細っていく父を見て私の心は深く神妙であった。

その後、無理な退院を強く希望した父であったが、自宅で栄養のある食事と住み慣れた我が家での安心感から現在は少し体の肉がついてきた。彼のメインの仕事は食べて排出し、歯を磨いて寝るだけ。シャワーは母の担当である。退院直後は本人も踏んばって少しは杖と人に支えられて家の中を歩けた、何とか回復して自立できるのではないかと希望も持っていたようだが、現在に至ってはその希望も砕けていくように出来ないことが増えていく。一昨日は熱が38.7度もあり、かかりつけのお医者さんが往診に来て肺炎ではないかと思われたが、そこには至っていなかった。

父の頭の中はもう、やけくそに近いんだろうと思う。不甲斐ない気持ちに苛まされているだろう。頭が通常通りしっかりしているので悶々とした日々を過ごしている。体を思いのままに動かすことが出来ない、以前のようにしたい事が自由に出来ない、人に頼らなければならないこと自体に怒りが込み上げてくるようだ。実際の言葉からその気持ちが発せられる。

そして、そんな彼を支える家族。これまで、介護などは他人事であったが、今はどっぷりとこの難関に立ち向かっている。父も父ならば、介護する側にも精神的な波がやってくるのだ。介護経験がある友人が一人の病人に4人がかりで介護していたと言っていた。そう、その通り、うちの家もそうだ。父を支えているのはこの家に住んでいる母、姉、私の3人である。

姉は父が退院した数日後、床に座っていた父を立たせようと引き上げ、ぎっくり腰になってしまった。その現場に私もいたのだから「ゴキッ」と言う生々しい大きな音とともに倒れた姉を目の当たりにした。あいたたた〜、姉までが倒れてしまった・・・その瞬間、不安になった。その後、姉はしばらく動くことが出来なかった。

父が倒れてから現在に至るまで、私ははまってはいけない父の感情的空間にどんどん引きずり込まれていく。これをどう説明しようか? 介護される側の人格、こう言えば分かる人には分かるかもしれない。うちの父はエニアグラム8である。以前に家族全員でエニアグラムテストをやったことがあり、父は8、母は2、姉は5、私は7である。面白いことに、7の私は姉の5に向き、5の姉は父の8に向き、8の父は母の2に向かう、エニアグラムを知っている人にしか分からないかもしれないが、この4名は嫌でもつながりは深くなる。7の私が尊敬する5の姉は8の父に自分を認めさせるためならどんなことでも知性的にやりこなしてしまう。そんな父は愛情豊かな2の母に自分の全てをさらけ出す。

父はボッシーな8番なのだ。まるで自分が頂点であるかのように振るまう。暴言などは、自分を誇示するための手段であることすら理解せずに吐き捨てることが出来る。とにかく、怒りに任せて言葉を吐く。何に怒りを感じているのかも知らずに。彼自身が他人に弱く見下され、なめられてはいけないと言う意思の現れなのだ。特に、母に対しては腹ただしいほどの命令口調である。「ありがとう」「すまんが・・・これをしてほしい」などと言った会話は彼にとってウィークな言葉なのだ。そんな父を支える母と娘達、心理的な不満が起こらないはずがない。

どこまでが彼を思ってか、どこからが -いやいや介護- なのか、その線すら引くのが難しい。ある瞬間にどちらにも変換される事実を体験した。良い方から悪い方へ、悪い方から良い方へ。人間の気持ちは瞬間異動が可能という体験だ。私は職業柄、必然的に彼のリハビリ役である。もちろん、それ以外の介護も行なう。一日に2〜3回、関節をゆるめたり、マッサージしたり、そしてそれには私の本職クラニオバイオが常に施される。父はクラニオバイオに入ると毎回、眠りに落ちる。私には分かるがあの落ちる瞬間の気持ちよさと言ったらないだろう。彼はその虜になったように私にリハビリをしてもらいたがる。

しかし、私自身も介護の疲れが取れないのだから凄く嫌な時がある。それに、父は自分がそのような状態なのだから誰かが自分にマッサージを施すのが当然なように振る舞い、母にもしょっちゅう足を摩れと命令するのだ。私はそんな父を見ていてすごく腹がたつ。それだけではない、思いつきのまま、あれやこれやと指図しては人を困らせるのだ。ああ、こんなことをだらだらと書き始めると腹にたまった怒りが私に襲いかかってくるので、冷静に客観的に背を正そう。介護は、する方、される方の心が許しあわないと互いを苦しめる。この父に対して、母と姉と私の3人はよくやっていると思う。

私は海外が長く、ある時期に来たら両親が年老い、私の助けが必要になる時が来るかもしれないと思っていた。私を自由にしてくれていた感謝のお礼にいつかその時は役に立とうと思っていた。今が、そうなのだ。しかし、私は心穏やかな人思いの優しいマザーテレサのような人間ではない。どちらかと言うと、自由を愛し、奔放に冒険するエニアグラム7番そのものの人物である。例え、両親に対する感謝の気持ちをもって今の介護に専念しても、冒険に出れないことへの不安と不満を抱いている。これは、いつまで続くのだろかと。

「介護と私」についてのブログは続きそうだ。なので、これを (1)で締めくくっておく。

現状に対する鬱憤が爆発するブログになるのかと思ったかが、書いてみると今回はこのような感じになった。文章を書くと頭が整理され、必然的に客観化されるのだろう。しかし、私も否定的な言葉を吐きたくなる瞬間があるとだけは記録しておこう。その瞬間、who am i と唱える私もいる。インドで培った瞑想がもの凄く私を助けてくれているのは間違いない。冒頭にも書いたように "介護" は私の心を写すのだ。感情に流されそうになる時、私はその瞬間にすることを決め、ただそれをすることにする。感情に耳を貸さないように努力する。すると、その瞬間に中和されるのだ。







7.16.2013

夢見るパンゴン・ツオ
















私にとってのこの旅のピークポイントは
標高4200mほどにあるパンゴン・ツオである。

インドと中国の国境をまたがってある天空の湖。
ここに一泊しかしなかったのはやはり惜しい。

幸いにも、程よく雲があり、そして快晴であったこと。
雲がなければ、何か物足りなさを感じただろう。

雲の存在はすごい圧倒感を与えた。
空、雲、風、湖・・・それを体験する私。




湖の色が空の色に反映し、それはもう、美しい。
トルコブルーになったり、深い藍色になったり、それらはとても澄んだ青だ。






飛び込んでその穏やかさと激しさ、その深遠さを肌で感じたかった。
だが、周囲に気を使い、浸したのは足だけ・・・。

これからの旅の支度に、いつ、どこででも、
水に飛び込めるように準備しておこう! と思った。

夢のパンゴン・ツオ





7.08.2013

女性の生理と神様のしきたり


一昨日からカクナール村のフェスティバルが始まった。何やら、神様の入れ物を新しく作り替えたお祝いらしい。初日、御神輿となってかつがれた神様はここから数十キロ離れたバシーシ村まで笛や太鼓の音楽隊と、その他村人50人ぐらい付き添って練り歩き往復した。バシーシ村はここら一帯でも温泉が湧き出る村として有名でもある。例えば、地球の歩き方インド編には記載されているであろうと思う。フェスティバル二日目も村の神社で神様の行事が行われた後、村人および訪ねてくる人々に分け隔てなく無料で食事が振る舞われた。これはどうやら数日続くようだ。行事の様子はまた機会があれば書いてみたいと思う。

カクナール村が祭っている神様はカルティケ(シバとパルバティの息子)と、その母、パルバティである。神様の入れ物とは、日本で言う所の御神輿のようなもので、装飾のなかに沢山の顔がついている。これを3〜4人の男性がかつぐ。神様がかつがれる時、かつがれている間は笛と太鼓が必ず鳴り響いている。祭りがトランスに入っていくとかつがれた神様が神輿を酔いどれのようにふらふら、よたよた、または激しく揺れ動かすことがある。その様子は以前にどこかの村で行われた大きなフェしティバルで見たことがある。媒体となる奇術師もいたように覚えている。

昨夜、祭りで振る舞われる食事を一緒にいただきに行こうと言っていた友人夫婦の奥さんが行けなくなり、その理由が私に伝えられた。彼女の生理が始まったと言う。一瞬、人前にでるのがおっくうなんだろうと思ったのだが、そうではなく、ここら一帯(何処らへんまでがそうなのか分からないがとにかくこの辺りの山岳地帯)では、女性の生理が始まった初日は家の中に入れてもらえないこと、自分の家どころか他の人の家にも入れないという驚きの伝統的仕来りがあるのだそうだ。ましてや、神様の前に現れるなどもってのほからしい。そういえば、神を祝うフェスティバルを牛耳ていたのは男たちであり、村の女たちは茅の外のように放牧している牛とともに少し離れた位置でこの様子を見守っていた。神様の近くにいた女と言えば、部外者の私と子供たちだけ。

話を戻して、生理初日の彼女には誰も触れない、女性同士であっても。誤って触れると触れた人も水シャワーを浴びないと家に入れない。友人の父などは初日以外でも生理期間中の3日間に彼女が作った食べ物すら触れないそうだ。とは言っても、そういった人達が凶暴で暴力的な男性と言う訳ではない。友人もその父もいたって穏やかな性格の人物である。これは、仕来りなのだ。私の友人(男)はそれを信じている、このしきたりの神様を信じているのだ。だから、私に彼女に触れてはいけないと注意する。

どうやって始まったかは分からないが、ただ、そういう仕来りなのだ。家の中に入れてもらえないが、家屋には正面玄関の外にある部屋がひとつ用意されている。生理初日の彼女達(女性家族)はそこで寝るようだ。翌日早くに水シャワーを浴び、身につけていた服やショールはすべて一緒に洗う。そして、やっと家の中を自由に入ることが出来る。私にとっては何とも言葉が出ない仕組みであるが、そういう仕来りで育った彼女達に疑問が浮かばないのか? とも思う。彼女達はいたって平気に受け止めているようだ。彼女達自身も神様を信じているのだ。一日、家の中に入れない奥さんは結構陽気に玄関先を通る近所の女性達と世間話をしながら笑っている。毎月のことであり、村人みんながこのことを理解しているのだ。私は見方を変えてみた。ある意味、その方が瞑想的ではないか。生理が始まると、他人に触れず、食事も与えられたものを家の外で独りで食べる。そうやって自分を見つめるのだ。

なんであれ、私はこう考えてみた。何故、女性の生理がそんなに恐れられるのか? 彼女に触れてはいけない。彼女がふれる物にも触れてはいけない。この地方では、その昔、子供が生まれるその仕組みが神秘そのものである。そして、いつしか、彼女の腹が膨らみ、人間の子供が生まれてくる。しかし、生理は生まれてこなかった人間が血の形となって出てくる。血は人間の形をとらずに出て来たもの。人間の形を要さない血を生み出したそれは邪悪であり、形にならなかった 何かかが出てくるのだ。人間ではなく、その血に魔物が乗り移ってもおかしくない。彼女に触れるのは魔物に触れるのと同じことなのだろう。魔物を家の中に招待するわけにはいかない。ここまで書きながら、おかしくて笑ってしまう私がいる、これを題材にした小説を書けるのではないかと。これはあくまでも私の想像なのだから。

どちらにしても、男は女性の生理を恐れていることに間違いはない。彼女に触れることに恐怖を覚え、触れてはいけないと教えられる。そうか、だから信仰なんてものが生まれたのだ。世界中のあらゆる宗教の土台を作り上げたのは男性であり、そして、女人禁制とやらの仕組みもあちらこちらで厳重に守られている。あっぱれよ、男達、あなた方はあなた方が邪悪だと思う産道から生まれ落ちたのだ。そのことを受け入れるための修行ならば、女人禁制は間違っている。女性の中に入って行くべきだ。女性に包まれ、女性とひとつになるべきだ。

2013.07.08 北インド、ヒマチャール州、マナリー峡谷、カクナール村から



7.07.2013

Ladakh ツアー



私の "ラダック探検クルー" がマナリーを去って日本に旅立った後、思いもよらないほどの寂しさに包まれた。今この瞬間にも、ひとりであることの "自分" を取り戻すプロセスが続いている。裏山を歩いたり、食事を作ったり、小説を読んだり・・・。自分の心の動揺を観察しながら、自分の中の静寂を探しているようだ。

小説を読んだからか、この状態を活字してみようと思った。一人旅が好きな私が "ラダック探検" なるツアーを組み立てたこと自体、自分で驚いている。そして、ことのほか、この探検は思った以上に楽しかったのだ。私たちは日本を出るまでに高山病についてそれぞれが考えた。お互いに情報を分け合った結果、誰もが健康を保ったまま、広大なヒマラヤ山脈での標高5360mを4回、4000mを越える山々を渡りきった。宿泊施設の中ではパンゴンレイクの4200mあたりのキャンプが一番高かったのではないだろうか。多少の疲れや不調はあったものの、全体的には至って快調でご機嫌な旅であった。天空の湖、パンゴン・ツオの満天の星空と流れ星が私の目に焼き付いている。

私はクルーをひとつのボートをこぎ合う仲間として共同生活の中で肉体的にも精神的にも誰もが自分自身のスペースを持てるように注意を注いだ、それは私自身のことも忘れずにである。うまく出来たかは分からないが、クルーの誰もが無言で自分以外の人を優しく気遣っている様子を何度もみていた。思うに、その瞬間に、それぞれが自分自身と向き合っていたのだろうと想像する。みんながそれぞれの瞑想の中にいた。

いろんな場面がフラッシュバックする。ひとつひとつの場面にその時の自分の気持ちが反映するにもかかわらず、多くの笑いを共有した。笑いはすべてを浄化する。そして、私たちクルーの誰にとっても未知で新鮮な体験は個々の静寂に吸収され、その波紋はやさしく穏やかになる。体験はカメラの中に収まりきれない、この雄大な地形も風も雲も匂いも。そこに居るのは体験している人物だけ。

私は今もひとりで自分の居場所を探すように心の動きを観察している。今朝、小説を読みきると次は何をしようかと思い、洗濯をし、コンピューターを充電する。お茶を沸かし、ベランダに座って辺り一面を雲と霧と覆われた山を望み、そして、シャワーを浴びた。もし、これが小説ならば、ストリーが展開されるべきだろう。しかし、これは小説ではなく、思いついたように書いている心の動きである。最初はブログに書き込むつもりで、先ほど家から降りて来て道路沿いにあるホテルのFi-Wiが不通であると分かり、近所の食堂でまた書き始めたと言う具合である。今日は辺り一面が雲に覆われ、私の心も出口が見つからずにいる。

しかし、今日分かったことがある。ラダックツアーに従事していた緊張感から解放され、やっと、日本を出る前までに係っていた仕事の忙しさと精神的疲れを思い出した。そうか、私には何もしない時間が必要であり、ひょっとしたら一日中寝ていてもいいのかもしれない。

一日中寝ていてもよいと思えるが、まだ、思考のほうが休まっていない。思考が休まらないとくつろいで寝ていることができない。夜は熟睡しているものの、本当の休息が起こるまであと数日はかかるのだろうか、それとも、くつろぎは起こらず、心を観察し続けるのか。しかし、きっと日はあっと言う間に過ぎていくだろうから一週間前の今から日本に戻るパッキングを始めようと思っている。荷物のパッキング、すなわち、心の整理整頓である。

今回のラダックツアー、ツアーはまるでジェットコースターのように展開され、かといって、その一瞬一瞬がとても濃い体験となった。思い出すだけで吹き出してしまう面白い場面が寝る寸前の私に襲いかかってきたこともあった。ひとり夜中に爆笑している私の姿が思い浮かばれるだろうか。

私のクルーはマナリーからデリーに向い、最後の緊張ある体験が待ち受けていた。2台のタクシーのうち、1台が空港への道を見失い、飛行機が飛び立つ、あわや1時間10分ほど前にデリーの国際空港にたどり着くはめになった。その時、携帯でのやり取りではらはらしながら間に合うことを祈り、最後に先に空港についていたクルーと一緒になったことを確認して私はベランダから自分の部屋に戻った。みんなは乗り遅れなかった安堵感とともに、日本に向かう飛行機の中でヒマヤラ山脈での思い出を回想していただろうか。今度、日本で会う時を想像すると、あの体験を共有できた喜びの笑顔が浮かぶ。

私のラダックの旅クルーに感謝を込めて、まだ、マナリーにいる私から・・・




私自身が教えている クラニオセイクラル・バイオダイナミクス の 施術者養成コース(10モジュール)も期間的に長く1年半〜2年に渡りますが、 私がオーガナイズする ダイアモンド・ロゴス・ティーチングス も 次回の Group2『7...