1.22.2020




















私自身が教えているクラニオセイクラル・バイオダイナミクス
施術者養成コース(10モジュール)も期間的に長く1年半〜2年に渡りますが、

私がオーガナイズするダイアモンド・ロゴス・ティーチングス
次回の Group2『7つのリトリート』も1年半ほどの長期プロセス。

これほどしっかりコミットして自分自身にワークするクラスやコースはさほど多くはないかもしれません。それゆえ、私が提供するワークは特殊な性質になっていると思う。

-- どんな性質?

私自身が関わりたいのは、しっかりプロセスして身につけること、深部まで理解が及ぶこと、理解と体感が一致して内的インテリジェンスが正しく機能すること、の助けなることをしたいのです。

-- なぜ?

深部に届かないワークは数をたくさん受けても同じところをウロウロするだけし、深いところの欲求が満たされず、また何か、心の穴を埋める代替えものを放り込むか、色々たくさん受け続けても、なお、ぽっかり穴が開いたまま探し求めているという結果に繋がって行く。ならば、本格的に取り組んでみるか、っと。

長期のクラニオコースは技術を取得できるから収入にもつながるけど、ダイアモンド・ロゴスはと言うと全くもって自分自身との遭遇ワーク。私のクラニオのクラスでも自分と向き合う、自分との出会いを大切にしていますが、ダイアモンド・ロゴスはそれのみ。

-- 自分との遭遇?

この自分との遭遇、しかも、7つのモジュールを通して、1年半かけて、このプロセスが凄い。スーフィズム体系を用いた個人の本質的資質や能力と、それに覆い被さる思い込みや誤った考え、それらのついて "インクワイアリー" という手法を通して自分自身の内的世界を調査し、驚くべき真実に出くわす、といった感じで進んで行く。

ひとつ前のブログでも書きましたが、エゴ構造への理解それ自体が、それらから距離をおく方法であり、内的ドラマに巻き込まれず客観的にいることができる、そうすると、他者からも、また自分自身からも、巻き込まれない分、内側にスペースが出来て、真実が明らかになる。これこそが、私たちが探し求めて止まないもの、自分との遭遇なんですよ。

そこに至る道は、やっぱり、しっかりプロセスされる期間と、安心でき、信頼できる仲間が必要なんですね。一緒に旅する仲間の存在はとても大きいです。一人では無理。なので、個人ワークなんだけど、グループ・ワークなんです。

-- 個人ワークだけど、グループ・ワーク?

例えば、ひとつのお部屋の中に、またはコースの中に、自分自身についてワークしている人が多くいる。インクワアリーを通して話を聞いてもらう、または、話を聞く。この行為の中に秘訣があります。人の話は、自分の話の一部、またはどこかの面を表現していて、深層心理で繋がっている、それで欠けているパズルが完結に向かうんですね。だから、グループ・ワークなんですよ。

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『DLTと、エニアグラムのスピリチュアル・ダイメンション』
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日時:2020年2月20日〜23日(4日間)
場所:ISNESS東京都品川区
受講料:12万円(『7つのリトリート』を継続して受ける方割引で9万8千円)
お問い合わせ:info★diamondlogos.jp(★を@に)
https://diamondlogos.jp/enneagram/

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『7つのリトリート』
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1年半かけて7つの連続したコースを受けます。
スタート:2020年6月から(4日間コースx7回)
場所:ISNESS東京都品川区
受講料:12万円 x 7回
お問い合わせ:info★diamondlogos.jp(★を@に)
https://diamondlogos.jp/7retreats/

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Breath of Life & Stillness
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クラニオセイクラル・バイオダイナミクス初心者コース
日時:3月19日〜22日(4日間)
場所:ISNESS東京都品川区
受講料:98,000円
お問い合わせ:cranio★healingart.jp(★を@に)
https://healingart.jp






1.21.2020

自分の制限、どう解除する?



自分の制限、どう解除する?
who is in 公案や、DLTのインクワアリーで自分について話す、インクワアリーの中で話すことで事実的な問題が解決するのではない、また、起こった事は消し去ることができないのに、心配症から気持ちの転換が起こり、良い方に向くのは、内面の心理劇に変化が現れるからだね。簡単に言うと、内的舞台、内的ドラマの、役者の役回りやその重要性がピュアーになって変わるからだね。
(*ここでのインクワアリーとは自問自答のこと)
例えば、内在する自我と、超自我、そして、イド。
この3者は内面の心理劇の舞台に必ず上がってくる、主要人物。
それぞれがどんな役割を持って、どんな態度で、どんな言葉を発するか、また、内的舞台の大掛かりな装置のどこに立っているか、どんな主張をしているか?
● 自我は、私と、私の尊厳を守ろうとする者。
● 超自我は、その私を高めようとし、また、脱落しないように監視する者。
● イドは、本能的欲求を訴え、それを得ようとする者。
公案、またはインクワイアリーで、私が自分について話す時、この3者に注意を向けていると、私の内的舞台に何が演じられているのかが良くわかる。そして、この3者の誰が一番強く、誰が弱々しいのかも良くわかる。
これは人生に起こるどの場面にも、また、日常どうって事ないことにも、大きく影響が及んでいることをあなたは知っているだろうか?
日常の自分の振る舞いは、内的ドラマによる擦り合わせ、事前検証が先にあり、それは内面で瞬時に起こるので、私たちが気づくこともない。表層に上がってきた考えや思い、感情をまるで自分自身だと思い込んでしまう。
しかし、事実はそうではない。
「それが自分という人間を証明するものか?」
と考えれば分かる事であり、
それによって自分は証明されないと知っている。
「じゃ、自分はなんなんだ?」
それが公案やインクワイアリーの向かうところである。
自我、超自我、イドのエゴ構造とその制限に気づき始めると、そして、内的なそれらの主張から非同一化して観察することができたら、自分の持っている欲求不満とストレス、自信のなさが演じられる舞台に飽き飽きするよね。
飽き飽きして、馬鹿げていることに気づくほど客観的でいることが最初の悟り。
よく考えてみる、周りの(社会の)状況やドラマ、他者の振る舞い、他人のドラマ、偏った考えに巻き込まれてたと気づく。
さらに、それが自分の内的な心理ドラマとなって自分の内側で夜昼かまわず上演されていることに気づく。
これこそが、私たちを巻き込む罠、自分の制限している罠だと気づく。
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『DLTと、エニアグラムのスピリチュアル・ダイメンション』
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日時:2020年2月20日〜23日
場所:ISNESS東京都品川区
受講料:12万円(『7つのリトリート』を継続して受ける方割引で9万8千円)
お問い合わせ:info★diamondlogos.jp(★を@に)
https://diamondlogos.jp/enneagram/
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『7つのリトリート』
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1年半かけて7つの連続したコースを受けます。
スタート:2020年6月から
場所:ISNESS東京都品川区
受講料:12万円 x 7回
お問い合わせ:info★diamondlogos.jp(★を@に)
https://diamondlogos.jp/7retreats/

2.17.2019

怒り



ここ数ヶ月、私は自分が "怒っている” と知っている。

ある事がそのことに気づかせてくれたのか、
もしくは、もうひとつ面に押し上げたのかは定かではないが、

… であれば、自分が "怒っている” のは
ここ数ヶ月の話ではないはずだ。

ずーっと前から怒っている。
多分、幼い頃から…

ダイアモンドロゴスと言う手法のおかげで
私はそう言ったことに特に興味を持つようになって来た。

心理的な自分の様相に、と言う意味。

そして、以前なら、

意識的にも、無意識的にも、
"自分の怒り” を自分に対しても誤魔化していたし、
不透明なオブラートに包まれて訳がわからない状態にあった。

でも、最近は自分を誤魔化せない
ますます、感情が鮮明に知覚認識できるほど面に現れる。

で、良いことにも気づいている。

"怒っている” ことに気がついているので
あまり同化されていない。

ただし、リアクション(外部に対する反応)は
まだまだ...瞬間的にやってしまう。

怒り - と言うエネルギーは活力を生むことも知っている。
いろんなことへの原動力になって私を支えている。
私の場合、創造力にも一役買っている。

“怒り” の負の部分は、他に対する恨みであろうか?

そんなことをずっと頭の端に置いてここ数ヶ月、
腑に落ちるまで、暖かく “私” を見守っている。

昨夜、DLT メンバーのシェアー・ミーティングがあった。
私はそのことにほんの少しだけシェアーの時間をいただいた。
その時は、今日の今より闇雲で、今朝は少し、何かが晴れている。

ミーティングの後、ずっと、何かがおかしいと、パズルを探しているのだ。

誰も ”怒り” など持ちたくないし、醜い自分にもなりたくない。
だけど、実際には “怒り” と呼べる感情を持っている。
なくなればいい、なくなればいい、そう言った呪文は効かない。

じゃ、なぜ、”怒り" はあるのか?

あってはいけない、と言う考えの方が間違ってないか?
そう思うと眉毛が下がる。

あってはいけない、という考えのもとに自分を誤魔化そうとする。
別に他にぶつけるつもりはないが "自分が怒っている” は認めてあげたい。
そして、“怒り” のことをちゃんと知っておきたい。

そもそも、“怒り” は何なのか?

ここまで書いて、やっと、究極のインクワイリーにたどり着く。

「“怒り” とは何なのか?」

幼い頃からある感情
居心地が悪い
おへそとその周辺に何かを感じる
が、悪いものだと断言できない
怒りが頭にくると居心地が悪いが、
怒りがお腹にくると質が変わる…

ちょといい事に気がついた
怒りがやって来たら、お腹に落としてみる
頭にはお休みしていてもらう。

それでしばらく様子を見よう (^^)
多分、頭で考えるには限界がある !

腑に落ちるまで、暖かく “私” を見守っている。

3.03.2018

世界幸福度ランキング



今日は3月3日、ひな祭り。
読売新聞を読んでいるとこんな記事が…
世界幸福度ランキングでノルウェーが世界一らしい。

2001年、ハラルド国王が言った幸福の条件とは

1. 健康であること。
2. 友達がいること。
3. 社会のためになることをしていること。

「人々は異なる理由で、異なる状況で幸せになる。
私は、楽しむことを学ぶことが必要だと思う。
それには心の持ち方が重要だ。
歩くこと、新鮮な空気を感じることなど、
すべてをバランスよく得ることが求められる。
裕福でもすべてのバランスがかけたら、
幸せになるのは難しい」etc… 

いかにも裕福な人のコメントですが…と言うのも、
世界にはとてつもない状況下に置かれている人たちがたくさんいて、
上記の3つにまで届かないかもしれない。

ただ、安らかに眠れるベッドが必要
ただ、食べ物が必要
ただ、誰かに優しくされたと願う
ただ、暴力から逃れたいと望んでいる
ただ、自分の能力を発揮できる場所が欲しい

誰もがあるがままに自分らしく過ごすこと、
そして、自分が認められ、受け入れられること、
人に喜んでもらい自分の存在に価値があると感じられること、

そして、真剣に取り組みたい何かに出会った時、
人は活力をそれに投資する勇気が湧くね。

それによって、失敗と成功から多くを学び、

自信と持続力、達成感や能力向上によって満たされる、
静かに自分を見直す時間とご苦労様と褒めてあげる。

もし、私たちが社会に翻弄され、人々に振り回され、
自分を保っていることが難しくなり、それに疲労してしまうと、

多くのことが見逃されて卑屈な精神に陥ってしまう。

自分の良さや、命の尊さに疑問を持ち始め、
生きることが冒険ではなくなり、苦痛となってしまう。

ここから自分を救済するのは簡単ではないね。

でもね、だからと言って自分を見捨てたりせず、
救済する方法を見出さねばならない。

もし、このワークが助けになるなら、試して欲しいと思う。


目から鱗、ちょっと自分に頑張ってもらわないといけないけど、
死んだように生きるのは嫌だから私は深く自分を理解したい。

人生自体が魂のプロセス

自分に向き合う、自分を正しく理解する、
本当に望んでいることに自分を向ける
少しづつでもそのように生きることを試してみる。

切ない感じだけど、人生は自分の物語。

悲惨な物語にするか、他人のように振舞って操り人形になるか、
もしくは、自分の道を歩くか…



2.07.2018

大きな勘違い、自由への道



なぜ、人はそのような間違った夢を見るのだろう?
なぜ、私はそのような間違った夢を見ているのか?

判断、基準、良い悪い、好ましい好ましくない、
から生まれる夢とわかっていても、
そこから自由になるすべがわからない。

何が良くて何が悪いのかと言う雛形があって、
それを元に私の全てが機能している。

とても根深そうだ…う〜ん、と、ふと、
昨夜、この雛形自体が大きな勘違いの元であると気づいた。

私の全てがこの雛形によって無意識にコントロールされ、
私から自由を奪っている。

このことをここに書いておかなければならないと思った。
急いでMacbookを開き、Evernoteに書き綴る...

私の根元は恐怖に縛られていて、
それから自由になることができない。

問題が周りにまとわりつき、
あるレベルでの乖離が起こっている、それは、
ショック・トラウマ的な乖離であると以前から知っていた。

私が雛形に固められて一体化しており…

その雛形そのものが大きな勘違いと気づいたのは、
ある本を読んでいた時に起こりました。

スーフィーは神と恋に落ちた人々だと、ある賢者(Osho)が言いました。

神の中に消え去る準備ができた人だと、そして、
神をわがハートに招き入れる準備ができた人だと...

私もそのような純粋な気持ちのままでいたいと思う。
本当は神と同じぐらい自由なのに何を恐れているんだろう?

その瞬間…

囲いの中で、自分の不幸を哀れんではいないか?
決して手に入れることのできない何かを夢見てはいないか?

と言う勘違い(雛形)に陥っていることに気がつきました。
この想いこそ、大きな勘違いだった…

実際には、この雛形は何重もの鍵がかかっていて
この驚く発見はまるで奇跡のように起こった感じです。

目からウロコが落ちたように....

たとえ、そんな考えが頭によぎったとしても
これほどリアルに真実の扉が開くことはありません。

ましてや、そのこと自体、切ない希望か、はたまた、ぼんやりと見る夢のように、
再び深い溝に消え去ってしまいます。

勘違いとの一体化、昨夜、こびりついた殻がポロリと剥がれた瞬間でした。
今は、とりあえず、剥がれたことを覚えてくことにします。




私の気づきのプロセスをサポートしているワーク:
『ダイアモンド・ロゴス・ティーチングス』

オフィシャル・サイトhttps://diamondlogos-japan.localinfo.jp

ワークショップ:
2018年7月5日〜8日『DLTの紹介、ソウル・チャイルド&イエローエッセンス』







2.04.2018

聖杯





















聖杯とは体のことで、そこに満たされるのは命という聖液である。

昨夜、ベッドの上で、なかなか、寝れずにいると、あれ?
ふと気がついた、何故か、めっちゃ元気、体も心も元気で満たされている!

どうするべ? 外に出て走りにでも行くか?
まぁ〜さか、夜中に、そんなことするわけね〜べ。

で、分かったのだ!
体の中に生命が生き生きとしている。

体は聖杯で、ブレスオブライフは聖液のことであると。
呼び名はなんと呼んでもいい。

そうか、クラニオバイオって凄いことやってんだ!

この聖液は、光り輝く媒体のようなもので、
永遠なるものを保持することができる。

決して歳をとらず、決して衰退することがない。
そうか、そうなんだ!

と、ひとり、真夜中に興奮しちまったじゃないか... (^0^)





1.23.2018

「うん」と「う〜ん」



















white wolf のブログに記事を書くのは久しぶり。

今年はダイアモンド・ロゴスを日本で紹介する年なので、
その体験を書いた記事を読み直していたところ、

その時々の素直な気持ちとちょっとした洞察、
あぁ、やっぱりいいねと自分の直感を信頼し直した。

日常の色んな体験をプロセスし続ける私の意識と無意識、
ちょっと待って、まだ、ほんとにいいのか分かってないから!

なんて意識 / 無意識でおどおどしているが、日常は待ってはくれない。
物事をまだ消化できていないのに人生は進んで行く。

その時々に Yes No の答えを出さなければいけないときもある。

そうするとき、信頼できるのが以前に友人Toshanが
ヒューマンデザインで教えてくれたこと。

どっちかな? って決めるとき、
「うん」と「う〜ん」との違いについて。

「う〜ん」の時はそれを進行させる必要はない。

確かに、「う〜ん」でもやっちゃうことがある
が、その結果も「う〜ん」で終わっていることに気がついた。

「うん」の時、自分の決定というより、
何かの流れに乗っている感じで結果よりもプロセスに満足する。

「う〜ん」の時は結果が良くても無謀だったなとひやりとする。
で、「う〜ん」の時は静かにして手を出さないようになった。

これって結構、瞑想の助けになっているし、
自分に振り回されずに済んでいる。

ありがとう Toshan (^^)






2.22.2017

やっぱり、人生って思うほど長くない





















昨日、大好きな先輩が亡くなった。

「プネーに来たらご飯作ってやるから、いらっしゃい」
って言ってくれていたにもかかわらず....
プネーにいたのに連絡しなかった。

まさか逝ってしまうなんて思いもよらなかった。
Meera ファン、少々、戸惑う。

OSHO の Crazy な友人たちが、ポロポロこぼれるように
この世を後にしていくのをみていて、
私はまだいいんだろうかと思ってしまう。

そして、やっぱ、人生は思うほど長くないんだと気がつく。

精一杯、生きなきゃって思わされる。
だらだらしてちゃ、ダメなんだと気づかされる。
なんだか、お尻に火がついたみたいに....

Meera ありがとう

人は一人でやって来て、一人で去っていくんだ...
なぁなぁじゃ、いけないな。

何をしたいかはっきりとして、
その道を迷わず、歩いていくよ

Meera ありがとう








9.09.2016

脱皮期間




















今回のマナリー里帰り、とにかく、長い文章が書けんかったんよ。
何を書いてもマインドにエサやってるみたいで(笑

今年の初め頃から、私自身に大きな節目があって、
じぃ〜っと自分自身を観察し続けてるよ。
ちょっと不安なような、無防備なような…

公共の場での文章の書き方が変わったんやけど、
なんか、私自身の人格的な安堵というか、
張り切り感が薄れたというか、
ある意味、誰かさんを脱ぐ期間というか

別に大したことはせえへんねんけど、
内面の自分を受け入れ続けてると言うか、
まぁ、まだこの期間は続くようやで。

で、思うところにダイアモンドロゴス、やってくれたわぁ。
私が誰でも無いものになるまで観察は続くんやで。

今まで、知らず知らずにどうやって、
世間でやっていけるか四苦八苦
知れば知るほど、誰かになっていく
見栄、自信、自慢、傲慢、卑下、愚か、落胆
ぜんぶ体験したら、あることに気がつく
ぜんぶ、恐怖が操っている

それでも、喜び、憂い、感謝、良い痛みは
それらから生まれたんよ。
私の生きてるってこんな感じなんや。

ふ〜ん。
そうなんや。

私が誰でも無いと言うことは、
消えていくんやね。

そやったら、受け入れるわ。





8.21.2016

ふと思う。


























最近の私は恵まれた状況の中でのんびりと人生を過ごしている。さしづめ、大金持ちとは言えないが金銭的な苦境にあるわけでもなく、他人や家族から嫌なことを押しつけられることもなく、好きなことを出来るときに出来る、そんな人生を感謝しなきゃなんねぃ。

世の中には何もかもが辛く苦しいと感じている多くの人がいるのだ。物や事は取りようで、最悪の状況においてなお、幸福を感じる人がいないわけでもないってのが何よりの助けだね。

恵まれた状況を作るにはコツがある。コツコツ、コツコツ、頑張るってのがコツ。

コツコツ、コツコツは、お金だけじゃーない。人との関わり方を正しく知って、そして、そのように自分を修正していく。もちろん、人格や趣向や癖や恐怖なんてもんがあるよ。そんなん、時間が必要なことがいっぱいやで。

で、自分のそんなところにちゃんと目を開いてる。あっ、しまった (; ̄ェ ̄)間違ったなっと思ったら、出来るときに修正すればいいんだから。その繰り返しがコツコツ、コツコツ。

で、知らず知らずのうちに苦労じゃなくて、気がついた時にぁー、幸福を背負っていたと知ったら、そりゃ感謝が降りてくるよ。

幸福だなぁ、って思える瞬間が来たら、じっくり味わうのだ。その時が自分を褒めてやれる極上の瞬間さ。



6.16.2016

夢の中で目覚めている

























以前のブログに、 ”夢の中で目覚めている” を
覚えていくことにしたと書いたよ。

それはどうやってできるのか定かでなかったんだけど、
今、ようやくその感じがつかめてきた。

日常の生活の中で、特に周囲の状況や人との関わりの中で
それを明らかにすることが出来るのがわかった。

それにはまず、自分の状態をずーっと観察し続けているのが前提で、
周りの状況や人と関わるときに "自分の何が変化するか" を見ている。

例えば、

外に向けての反応(エゴ)は控えるといいですがそうもいかなかった時、
ちょっとしたくだらないコメントをしてしまう時ってあるよね

自分が起こしたそんな反応に、これまた、自分がどう感じているか、
居心地が良いか、悪いか、何がそうさせているのか? 見ている。

自分の反応に対する優越感、自己反省や自己批判、また解離などは、
勝手に起こるのでそれをただ観ている。

こうすることで、無意識に、
または夢に目覚めていることができるとわかった。

分厚い雲に囲まれている
雲を蹴ちらかそうとするとさらに厚い雲が押し寄せてくる

そうならば、どんな雲かみていよう
どのように動き、どのような弾力があるのか?



前に書いた、

-- 無意識には弱点がある。そう、痛いところをつねってやる。
 すると、地獄の底から簡単に流れ出す。

-- 無意識には策略がない、策略を企てるのは体裁を繕う意識である。
 無意識は体裁や策略がないので意識が恥じるのだ。

-- それが出てくるとき、何らかの質を帯び、一見して意義がありそうに見えるが、
 根本的にはただのエネルギーのように思える。

-- それが、まずは、夢の中で目覚めているという事にならないだろうか?
 では、どうする? 



6.09.2016

エゴを脇におき、静かにいる


今回の Faisal meeting で私に決定的なことが起こっていたのは、静かでいるとき、何であれ、静かに観ている時だった。そして、観察のプロセスがいかにパワフルであるかを体験した。

これまでも、瞑想で静かでいることをしてきたし、インクワイリーで観察もしてきた。でも、そのどこかに、観察の中に、ワンダリングがあった。インテンスに観察している "私" がいた - といった感じ。

今回、そのワンダリングが消えた。本当にただ観察しているだけ。この違いは大きい。"観察している私" と言うより、"観察の状態" がそこにあったと言うのが正しいだろうか? うまく説明できないけど…

ワンダリングがないという事はどんな期待もない。とてもとても控えめな状態だった。私は、私自身にお手上げで、最初のうちにエゴをとにかく脇に置いておくようしてみた。

エゴを脇に置き、ただ、静かにしていると、周りのすべてが違っていた。最初は気づけなかったけど、途中で自分が、あらゆる面でとてもリラックスしていることに気がつき始めた。

Ameno から Milano に移動した翌日、朝起きた時から夜まで、友人に会っていても、食事をしていても、目をつぶればすぐに寝てしまえるほどの睡魔がそこにあった。つまり、どの瞬間でも目をつぶれば眠れるという奇妙な状態。

それは頭だけでなく、体と私の存在全部が眠りに吸い込まれそうなぐらいの勢いで、こんな種類の睡魔は初めてと思う。前日もその前々日も睡眠は十分とっていたのに。

今から思うと、静かな観察はずーっと続いており、この慣れない長時間の意識的な状態に無意識が耐えれきれず、眠りを誘っていたのかもしれない。何となく、腑に落ちる。

付け加えると、この意識的な状態はとてもソフトでインテンスな観察の状態とはまるっきりかけ離れている。まるで、何かに優しく包まれているような感じ。

そう思うと、私に起こっている事はただ事ではないと分かる。これはもちろん、Faisal とその meeting  group の影響なのは間違いない。Faisal と共に静かに座る瞑想が何度かあって、その時の Faisal はとても深く静かで澄んでいた。

彼は私のすぐそばに座っていたけど、その存在が消えていたし、彼のどんな欠片も見つける事はできなかった。ほんの数秒、何度か戻ってきたようにも思えたけど、またすぐに消えていった。そのことが、私に影響を与えないわけがない。

エゴが活発だと、私たちは何も語らずともうるさい存在となり、その人といるだけでとても疲れてしまう。逆にエゴがないと、さざ波のない湖のように静かで透明感がある。

私はこの静かな湖の中にゆっくりと引き込まれていったように思う。例え、私のマインドがまだ漂っていたとしても。

実際、その時、私のマインドは漂っていた。だから、漂うぐらいの控えめなエゴはあった。そして、エゴの漂える層から静寂を覗き込んだ。

自分以外の point of light (ここでは Faisal だが) が深く潜っていたので、私もその深淵を覗き込むことができた。

この体験は私の瞑想の質を変えたように思う、何が? と言うのは言葉にできないけど、つきまとっていた何かがなくなったような感じ。

しいて言えるなら、 I am no one のスペース だと思う。私が誰でもなければ、エゴはとても控えめでいることができる。



6.08.2016

Faisal に言わせると


Faisal に言わせるとこの世界はパラダイスである。

どれほど昔のことか知らないが、何十億年? (137億年前) もかけてこの宇宙が発展し、沢山の星が生まれ、その中でも最も美しい地球に人類が誕生し、花が咲き乱れ、鳥はさえずり、海の中では魚が沢山泳いでいる。this is a miracle! 

そして、ヒトはそれを目撃できる目を持ち、聞き、味わい、体験することの出来る体を持つことができた。This is a miracle! You are in the paradise ‼︎

と、 Faisal は言った。

確かにそうかもしれない。 そして、このパラダイスがパラダイスでなくなったのはいつからで、どうのようにしてそうでなくなったか? が、私たちの知りたいことである。

何であれ、周りの環境と大人達 (特に両親) によって、子供は 7〜8歳ごろにはすっかりエッセンスと切り離されてしまう。つまり、本来持ち合わせた能力を否定され、その代わりに条件づけの社会性を植え付けられて、自分を見失ってしまう。

子供は深く傷つき、無意識の代償として体に緊張を持ち始める。例え、大人になってそれに気づいたとしても、心を開くのに大変な時間がかり、深い問題の中で見失い、ある種の痛みは感じなくなっている。

あなたがそれをほんの少しでも開こうとするなら、あらゆる方面の痛みと混乱が生じる。だから、明確な方法で、ひとつひとつを理解しなければならない。それゆえ、5つのラティファ (5つの本質的資質) から始めるのが良い。

私はこのダイアモンドロゴスと言うワークはとても効果的にそれに働きかけることができると実感している。そして、エニアグラムの fixization はそのとっかかりにとても役立つ。自分のエゴストラクチャーのあり方であり、無意識の振る舞いと防御機能の上に成り立っているから、知っておいたほうがもちろん良い。

エニアグラムの9つのタイプ以外に、3つのベーシックがある。ソーシャル、セックス、サバイバルのどの傾向にあるか? 

ソーシャルは、人のいるところに出て行くべきか? 隠れ潜んだいるか? セックスは、セックスすべきか? しないべきか? サバイバルは、食べるべきか? 食べないべきか?  ちょっと簡単すぎる説明だけど、私自身と言えば、ソーシャルがベースだと思う。

と言うのも、社交性に欠けている。一人でいるのが好きなのだ。どんなオケージョンでも、いつもそのことを考えている。人と一緒に行動すべきか? もしくは、帰って自分の時間を楽しむか?  よっぽどのことがない限り、後者を選ぶ。

enough for now .....




6.06.2016

"知る" こと


Faisal が Family Hole と エニアグラムの fixization について話してくれた。生まれてきた子供は、何とかして家族の穴を埋めようとする。家族に欠けているものを埋めようとするんだそうな。

ある家族には愛、ある家族にはグランディング、ある家族には力、ある家族には知識、ある家族には成功を、こどもは欠けているそれ自体になろうとし、それを家族に与えようとする、が、不健全な家族に受け入れられもせず、何度も何度も失敗してしまう。

私はなぜ、7番なんだろう? 私の父と母、特に激情的な母の見ているメロドラマの中で育ったようなもので、私は母の感情が怖かったし、ゆえに、感情とは恐ろしいものだと受けとった。

そんな激情ドラマを子供の私が理解できるはずもなく、混乱し、かなりディソシエートした子供であった。どちらかと言うと夢みがちな。夢の中へ逃避し現実に触れないようにしていた記憶がある。

当然、子供の私は現実の中で夢のような冒険をすることはできない。今でこそ、人が羨むほど自由に動き回っているが、それは、現実からの逃避を実践できる年齢になってからのこと。今の私の自由は、夢の続きから発生したようなものである。

もひとつ、私は心理的にかなり混乱していた。もし、マスターに出会っていなければ、きっと、気違い染みた人間になっていただろうと想像できる。私はOSHOに救われたのだ。

私は彼の知識と知恵をどんどん吸収していった。OSHO は、私の混乱を溶いてくれた。これが、"知ること" である。自分に起こっていたことだけではなく、それ以上のことを知ることができた。エンライトメントと言うとてつもない可能性について。

それは、特別な人にだけ起こるのではなく、そして、高い高い山の天辺にあるのでもなく、自分自身に戻ることであると教えてくれた。我が家に帰るのだ。ここに I am No One. があった。

エンライトメントそれ自体が治療であると私は理解している。それは宗教でもなく、ましてや政治でもない。エンライトメントは深く深く安心して我が家に留まっていることである。

私には "知ること" が必要だったし、知識は感情に比べて安心できる tool だった。知識と理解が知恵を産み、私を救ってくれたのだ。

私が思うに、7番は感性的にも敏感である。内なる感情はとても豊かだ。7番に沢山のアイディアが浮かぶのはそのせいである。成熟した7番は自分が見つけた宝を美しく育て上げる力を持っていると私は思う。

私の自由は、夢の続きから発生したが "知ること" で夢から覚め、現実の中でそれを実践することが出来るようになった。そして、知ることでとてつもない喜びを感じている。私にとっての "知る" は体験の一部であり、理解が起こった瞬間、この体験のピークに達する。脳内ホルモンがドビュっと出る瞬間だ!  (⌒▽⌒)



6.04.2016

No one is there































何かがおかしい、かといって今までの私はこうじゃなかったのかと言えば、私は以前と変わらず、まったく同じ私である。

point of light の後、ずーっとこの調子で、とても居心地が悪いのだ。ゆえに、私は前より増して自分をずっと観察するようになった。

言動、振る舞い、自分のすべての行動をずーっと観察し続けている。居心地の悪さに対する答えを探し出そうとするように。

ダイアモンドロゴスミーティングの2日目、ランチの後、レクチャー前のダンスで 「はっ?」が起こった。

その閃きは、私は自分が "誰か" であると思い込んでいた。 事実、私は自分ではなく、誰か (パーソナリティ) を生きている。

ああ、なんてこった! ブルータス、お前もか!

この閃きはこの言葉で起こったのだ
 I am No One,

私は誰か (パーソナリティ) を生きていた。でも、真実は、私は誰でもないのだ!

なんという事だ、I am no one !!!!!!!
ブラボー ‼️ 🎉



ランディング

Faisal は、ダイアモンドロゴスミーティングの初日のほとんどをオリエンターションにつぎ込んだ。

長くワークに携わっている人、新しい人が混じっているらしく、ザワザワして、わぁ、こりゃ大変だなっと思ったけど、2日目になって分かったのは、人の事より、私自身がぜんぜんランディングしていなかったのだ、ははは。

Faisal は、私の想像を超える忍耐があった。それほど、私たちはザワザワしていた。出発する船に乗船した私たちは、2日目の今日、ようやくそれぞれの居場所を見つけたようである。

2日目の驚きは、Faisal は何とパワフルであるか! しかも、いろんなレベルにおいて。ああ、本当に来れて良かった、どんなに自分自身に居心地が悪くても、ここに私の居場所があったんだと深く安心できた。私はここに連れてこられたのだ。来るべきところに、呼ばれて来たんだと知った。

今年の一月、中国で受けた point of light 以来、私は不安と共に自分を見失っていた。コースの後の最初の1ヶ月ほどは "とてつもないもの" が開き、興奮し、ハイになっていたんだけど、そのあとが、始末の悪い事に、何が何やら分からなくなってしまっていた。

で、その後、ずーっと居心地が悪く、なんであれ、自分を観察しているしかなかったし、私の人生はこれで終わるのか? と言うほど不安があった。だから、今回、Faisal に会いに来るモチベーションもなかったのさ。

今日、Faisal はチャンティングの後、レクチャーに入った。とてもエキサイティングなレクチャーで、彼の話を聞き逃さないように注意していても、内容が濃すぎて、また、スピードがあり過ぎて、ある瞬間、私は理解するのを諦めた。すると、何ということだろう、理解するのをやめた途端にそれが起こった。



自分がある状態のスペースにいると気がついた。レクチャーの内容はどうであれ、彼の存在が物凄くパワフルなのに気がついた。なんと凄い人だ!と、で、その瞬間、トランスミッションが私に起こっていたのだ! 

彼のレクチャーが、とても興味深い話に加えて、それを理解しようがしまいが関係なく、奥の深い所にどんどん変容が起こっていく。まさに! わぁお!!!! だ。

理解しようと努力している時はそれに気づかず、頭を落とした途端、それに気づいた。

そう言えば、初日もそうだった。Faisal  と一緒にサイレント瞑想にいた時、私は私のマインドといたし、周囲の人のマインドもざわついていたのを知っている。なのに、Faisal はと言えば、瞑想の間、まるでそこに誰も座っていないかのように消えていた。

彼の席に "空" があった。もちろん、私は目を瞑っているし、彼がどうしているか確かめることはできないが、そこに気配もなく、彼を見つけることは出来なかった。

数回ほど、ほんの数秒だろうか、彼は戻ってきたように感じられたが、すぐにまた消えていった。レクチャーであれほどパワフルな人がこんなに 空に近いほど消えることができるんだとびっくりしたのを覚えている。

ともあれ、彼のおかげで、本日、私もようやくランディング出来たようだ。



6.03.2016

アティーシャの呼吸の瞑想

「とても深くゆるんで、リラックスすることだ」アティーシャの知恵の書の中で和尚が使った言葉。クラニオバイオにそれがある。

「しがみついたり、執着したりしないこと、従うのではなく、知るのだ」と続く。私たち (クラニオバイオ) の「介入しない、巻き込まれない、ただそれ (タイドモーション) と共にある」がこれに当てはまる。

人は夜眠りに着き、やっと自分自身からも解放される。夢のない深い眠りの中では抵抗する者がいなくなる。

そして、人体には、そのすべての活動を統合する律動的で微細な波が横たわっている。クラニオバイオの施術者はこれを調律する、言わば、楽器を調律する調律師のようであり、また、この微細な波は体を体を治す力を持っている。

施術者はその力が最大限に活かされるように自らがその波に従う従事者となる。詳しくはまたの機会としてここで書くのは控える。

「とても深くゆるんで、リラックスすることだ」私はこの言葉を何度も自分に問うてみた。この言葉の中に入ってみた。最初に起こったのは、先を急ごうとする思考が私をこの問いから遠ざけようとする。次に… 体の感覚や状態に入っていく。

落ち着いて体の感覚に入っていくと、ピクピクしたり、ねじれの解放でグルンと動いたり、箇所に手を触れずとも、この問いと共にいるだけでクラニオバイオな体があった。

しばらく、心臓の音を聞いていた。先を急ごうとする思考もそこにあった。次は何? 次は何? と私を急き立てる。

「すべての現象は夢のようなものである」そう、思い出した、今回の旅の間、私はこの事に従事しておく事にしたんだ。私がここでこうしているのも、夢のようなもの?

 「とても深くゆるんで、リラックスすることだ」

これを続ける。この問いは、どんどん私を今この瞬間へと導き始める。同時に、居心地の悪さがマインドを介入させ、私を "今" から引き離そうとする。

アティーシャの瞑想について和尚が話していた。「初めてアティーシャの呼吸の瞑想に取り掛かるには、世界の苦悩よりまず自分の苦悩から始めなさい。苦悩が起こったら、それを呼吸する、苦悩を吸い、喜びを吐く」。

思考に耳を貸さないように気をつけながら、体や気持ちの居心地の悪さを呼吸で吸い込む。この後の喜びを吐く、は簡単ではない。喜びを探さなければならないと気がついた。しばらくして、感謝なら思い出すことができると分かったので感謝を吐くことにした。

しばらく、この呼吸を続ける。後で、この呼吸にはプロセスが起こると分かった。呼吸を始めてすぐ数回目の吐くで涙が出た。その数回後、とても未熟な感謝だと分かる、吐くは感謝にとって変わって「未熟な感謝をお許しください」と許しを乞うに変わった。

そして、吐くたびに、感謝と乞うは、思考へと傾いていった。どうやら、私は、本当の感謝が起こるまで、この呼吸を続けなければならないようだ。

「すべての現象は夢のようなものである」
「とても深くゆるんで、リラックスすることだ」
  そして、 アティーシャの呼吸法、この3つを続ける事にした。


6.01.2016

夢の中、夢の外

「すべての現象は夢のようなものである」

思考が働いている、思考が働いていない、ぐらいは観察できる。その思考と思考の間のギャップも体験できる。でも、夢と夢の間はあるか?  それとも夢はずーっと続いているのか?

思考と思考の間のギャップ、そこにほんの少し、本当にほんの少しとどまることは出来る、が、そこから先は私の範疇になく、神のみが奇跡を起こす事ができる。

で、地団駄を踏んでいる私は、思考がないときも、私自身のエゴにフックされている、人格 (つまり、"私が観察している" ) が私の前に立ちはだかって、奇跡は起こりそうもない。

エゴと人格は同一なのだ。だから、ただ、エゴと言うよりは、もっとシステマティックに機能している、それが人格なのだ。

人格を支えているそのほとんどが無意識層にある、で、お手上げである。混沌とし、一貫性がない。意識はその表面を繕う役割を担っているだけ。

わたしが思うに、無意識には弱点がある。そう、痛いところをつねってやる。すると、地獄の底から簡単に流れ出す。

無意識には策略がない、策略を企てるのは体裁を繕う意識である。無意識は体裁や策略がないので意識が恥じるのだ。

これと、夢に落ちるは一緒だろうか? すると、無意識も夢だろうか? このコンテキストでの意識は夢であることに違いない。繕う自体、自然ではない。

無意識は? 私は無意識を理解しているか? 無意識って貯蔵庫のようなもの? 夢の材料を蓄える貯蔵庫のことか? 混沌として、一貫性がない。

それが出てくるとき、何らかの質を帯び、一見して意義がありそうに見えるが、根本的にはただのエネルギーのように思える。

意識より無意識の方が面白そうである。偽らないから真実に近い。意味を持たず、エネルギッシュだ。この無意識の中に、目覚めた状態で入っていくことは出来るだろうか?

それが、まずは、夢の中で目覚めているという事にならないだろうか? では、どうする? 

at least 無意識な中に目覚めているようにする、私にとって、夢の中か外かの? 助太刀になるかもしれない。

「すべての現象が夢のようである」に意識的にいるのは、広大すぎて、ぼんやりしてしまう。夢か、夢でないか、まったくチンプンカンプンだ。

夢は思考がないときも起こっているようだから、夢を支えている無意識に要注意しておく事にする。意識は形が見えるから注意しやすいけど、無意識は捉えどころがないから、ちょい難しい。





--- dear 奇跡が起こった人の意識、ボーディチッタ、釈迦の意識、I am trying some to reach you ---

5.31.2016

アティーシャの瞑想

イタリアの Ameno で行われる Diamond Logos Meeting の旅のお供に持ってきたOSHO - The Book of Wisdom。 読み始めた冒頭から、持ってきたのがこの本で良かったと思った。

どれほど続けられるか分からないが、at least この旅の間はこの瞑想を続けることにした。私は - アティーシャの瞑想 - すべての現象は夢のようなものだ - という意識を保っていることにした。

すべての現象が夢であれば、夢の中にいる "私" もまた夢であり、エゴと非同一化するエクササイズらしい。難しそうだけど、しばらく、この意識を忘れないようにする事にした…

… しばらく、思い出す度にそれをやろうと試みる。簡単ではないと分かった。数秒したら簡単にその事を忘れてしまう。目に入る、耳に聞こえる、外からの情報に持って行かれる。夢から覚めるのは難しい。これは、めっちゃインテンスな瞑想だ…

つまり、思考が始まると夢が始まる、そう言われているような気になってきた。つまり … そう、"つまり..." は、無いのだ… うううぅ…



4.22.2016

あっ!!!

スーパービジョンを含めた昨日までのクラニオコース、
なんだかとても幸せな気持ちに包まれている。
思いの外、充実感が半端なく、何かしら、
深い安堵が横たわっている。

強いて言えば、十牛図の7番目、忘牛存人。
すなわち…



牛にまたがって家にたどり着く。
心は澄み切って穏やかであり、
牛もまた休息することができた。
草葺の家で安らぎ、夜明けが訪れた時、
垂れ下がった鞭とロープを持っていた私は
至福に満ちていた。





それは私が仕事を完璧にこなしたと言うことではなく、
やれることをやった程度なんだけど、クラニオコースの後、
不思議なほど内側が満ち足りていたよ。

翌日、能登で行われた Meera の桜ペイントグループを
アシストしていた友人 ヘナ、ヴァユ、タティーナと
合流して原宿でランチして明治神宮を散歩する。

久しぶりに会う、でも、なんでも話せる楽しい時間。
タティーナがダイアモンドロゴスについてたくさん聞いてくれた。
私は自分の体験とか、ワークの進行や内容についてシェアーする。
この時は、まだ気づいていない。

で、みんなと別れた後、
大阪に帰る新幹線の中で「あっ !!!」

ダイアモンドロゴスの中国クラス!
そうか、そうなんだ! 私、やっぱり、以前の私ではない。
開いたまんまなんだ、開いておくことにしたまんまだった。
落ちていってるんだ、明け渡しが始まっているんだ !!!

そう、そこに気がついた
 (.^0^.) わぁ!

なんだか、凄いことが起こっている、と知った。

5月の連休にダソと一緒に who is in をファシリテートする。
あのインテンスな瞑想に入れると思うと、とっても待ち遠しい。
とは言っても、今、この瞬間もとても静かで満ち足りている。

ゲートを潜るとそこは神の懐。




私自身が教えている クラニオセイクラル・バイオダイナミクス の 施術者養成コース(10モジュール)も期間的に長く1年半〜2年に渡りますが、 私がオーガナイズする ダイアモンド・ロゴス・ティーチングス も 次回の Group2『7...