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日常の中のメディテーション

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Who is in メディテーションから出てきて6日目。通常の生活に戻ってきても、体験は私の中で続いている。そのことを見逃さないでいられるのはありがたい。ちょっと遠くの音に耳を傾ければ空間がぐわ〜んと広がる。そして静寂がやはりここにあった。例え、何をしていても。


観照は奥が深い

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“観照” を辞書で調べてみると『主観をまじえないで物事を冷静に観察して、意味を明からに知ること」とあった。その他に、『美学で、対象の美を直接的に感じ取ること、美の直感。』とある。私が言うところの観照とは後者の方に近いのだろう。意味を明らかにするのであれば、そこに思考が存在する。それに比べ、直感は体験的なものだ。

先のゴールデンウィークで行った <Who is in リトリート>ではこの観照がついてまわる。何を考えても、何を感じても、何に従事していても、それを観照し続ける。観照し続ける上に、公案テクニックでそれについてコミュニケートする。

公案テクニックがより優れているのは --- 観照がどれだけ深いか?--- が自分で確認できるところだ。ただ静かに座って観照しているのであれば、それが夢なのか、現実なのかの区別がつきにくい。公案では “夢” が打ち砕かれる。このプロセスとインテンションを持ち続けることで隙間と呼ばれる無思考が鮮明になり、ノーマインドの状態を体験的に認識し始める。その深みが濃厚になっていく様子を観照する。無が出現する。そこに夢は存在しない。

----- 私の体験

今回のファシリテーションで私が知ったことは、自分はまだまだ振り下げてられていないということだった。知識をクリスタライズするのは得意かもしれない。そこには何らかの体験が含まれているので少々現実味を帯びて見せることもできる。でも、「本当にそれが真実か?」と自分に問うと、マインドと言う陶器の一部に亀裂が走り、ピキッという音が聞こえて今にも壊れそうだ。

そうであれば「壊れてしまえばいい!」と願う。しかし、願ったところでそれは叶わない。それほど魔神のようなマインドに私は支配され、コントロールされている。瞑想の時間だからマインドは脇に控えてもらおう、それは難しくない。しかし、普段から野放しで自由奔放であるマインド(心)は私が瞑想している間にも、隠れてあらゆる情報を収集し続けている。出番が来たらすぐに対応できるようにと。私とマインドは一体化している。

同時に、公案とアクティブ瞑想は “私” というシステムにどんどん働きかけていく。いくらマインドが騒いだとしても、その下に横たわる “静寂の世界” はいっそう現実味を帯びてきた。“私” という存在の中心が私(観照)をつなぎ止めている。

3泊4日の who is…