11.22.2011

ギリシャから戻る・・

昨日、ギリシャから戻った、やはり時差ぼけには勝てない。今日の昼過ぎまで目が重たく、起きれなかった。2週間のサトリで得たこと、まずは、体の調子復活。毎日ダイナミックとその他のアクティブ瞑想が体の浄化と矯正をしてくれた。少しばかりヒップアップしたのではないかと密かに喜ぶ (^^)

2週間ぶっとうし、公案と向き合うこと、なんと贅沢で苦しいことだ。何度も何度も、ああ・・こりゃだめだっ! と投げ出したい気持ちと、どこにもたどり着けないいらだちと共に否定的な思考に引き込まれていく。

No Mind 、私の期待は焦りと化し、最後の方でマインドの攻撃すらかわせない日が続いた。そして・・・それすら、もうどうでもいいやとその状態に身を委ねる。この時点で、私の公案は who is in? から<コンシャスネス/意識>に変わっている。

これはいったいどういう現象なんだ!? っと夢でも見ている気持ちにすらなってきた。生そのものが夢であった! と核心に迫る。だが、コンシャスネスは決して眠らず、また夢も見ない。では、人生という夢を見ているのは誰? 公案は謎解きではないと分かっていても、ああ、謎に魅入られていく。




















Tell me what consciousness is.

このように問い掛けられると、コンシャスネスト/意識は・・・っと続く。朝、眠りから目覚める瞬間、思考が始まる前に私は自分が起きたことに気づいている。

それは誰?

そして、思考が働いていなくても、私の日常が連続してうまく機能している。

それは何故?

ただの脳の働きとは思えなくなってきた。私は一度、パニック症候群の恐怖に耐えた経験がある。3年ほどで回復を見たのはたぶん、他の患者に比べて脅威的に早いのだろうと自覚していた。それも、病院にも行かず、薬も服用せずに耐えたのだ。しかし、この時の恐怖はきちがいになって病院送りになってしまうのではないかと変わっていた。

その時、何故、私は助かったのだろう? 私はすでに瞑想を知っており、セラピーも学んでいた。これこそが私を救った要素であり、病気のときでさえ、私のコンシャスネス/意識が、もしくは自我が健全だったのだ。パニック症候群の様々な症状があったときでも、私自身が<意識>としっかりつながっていたからだと思い起こした。精神を病むとは、自我と意識の連結が途切れたことだと知るに至る。

肉体のレベルから言って<意識>は生命固有であり、生命を一定の状態に保っているのだと知る。そして、それこそが私の核であり、全部なのだと思う。体はコンシャスネスを運ぶ物体であるのだろう。インテレクチュアルな概念は良いとしても、公案は哲学ではない。

意識が目覚めていくと、知覚感も変わっていく。思考の囚われから解放され始め、穏やかになり、すべてがオッケーなのだと細胞のひとつひとつが新鮮さを味わい始める。今回、私の期待を満たさなかったのも<意識>の仕業であろうと確信している。つまり、私の愚かな期待以上に<意識>は私に働きかけているのだと理解した。

最後の日、私はマスターにこうべを垂れた。私のやることはすでに終わり、あなたの思うままに私を使ってくださいと。














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