3.23.2012

— 宮城県内の21大学が始めた共同プロジェクト。震災からの復興にかかわる様々な授業を各大学の教員が週末に持ち回りで行なう。原子力問題や、地域再生に関する授業もある。—復興大学(読売新聞から)

311の未曾有の災害時に政府の対応がうまく機能していなかったことに苛立を覚えた人は沢山いた。このような特殊な状況において、特別専門隊のすばやく行動できるシステムがなくてはならないと思う。宮城県にボランティア活動に行った時、私は沢山集まったボランティアの力と愛を感じた。悲惨な状況の中で感じた思いもよらない "感動" と言う感情だった。人間の持つあの力は愛だ。沢山の専門家が集まり、それは個人レベルでもあって、普段、発揮できない内在的な自己能力が活性されていた。

人は互いに必要とされ、求められることによって開花していく。もし、この世でたったひとりの人間だったら、自分自身ですら認識することができないだろう。現代のこの社会の中で、誰かを必要と感じること自体に恐怖を覚えてしまう。それは、自分が自立した立派な人間ではないという証のように。助けを求めることに恥を感じさせられる。これは深い条件づけだ。恥は私たちの前に立ちはだかって、能力を萎縮させる。私たちに恥を植えつける社会の仕組みも間違っている。ここが改善できなければ、将来を担う子供達にも "恥" というバグが植えつけれてしまう。

では、恥という感覚はいったいどこから来ているのかと考えてみると、"優劣" と浮かぶ。この優劣は、生存レベルに基盤がある。食うか食われるか、子孫を残せるか。優劣は、まったくプリミティブな世界で展開される。虫や動物の世界の優劣は生死にかかわる。人間は、それ以上の能力を持つことができた代わりにそのコインの裏側にある "恥" も手に入れた。「"恥" は存在する。」こう言ってみたら、何となくその正体がうっすらと見えたような気がする。通常、"恥" を感じていることは誰にも知られたくないので  —恥を恥と思う— 恥を感じたら、すぐさま、頭の中で取り消そうとする。しかし、「恥は存在する」と認めてみると、私に及ぼす恥の威力が小さくなった。面白い。

話しを元に戻すと、最初にこのブログの話題にしようと思っていた復興大学についてが、何故か、"恥" についてに変わっていった 。思考とはこのようなものであると、また理解した。ブログの題名は 『復興大学』から『恥』に変更した。


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