10.30.2012

ダイアログ(対話法)と悟り

私はこのダイアログの素晴らしさに一瞥を向ける。その技法はまったくシンプルで、個人のインテリジェンスを効果的に引き出すことができるからだ。方法は簡単、とは言っても、最初はその感覚とコツをつかむことに苦心するかもしれない。

しかし、何であれ概念(事事の本質を捉えようとする思考の形式)は、・・・簡単に言うと、自分の頭の中で展開されている物の見方だが、それは世界を展開しているのと同じ意味でもある。そして、それは『物の見方』と言うめがねを通して行なわれている。事実、起こっていることをそれぞれがそれぞれの方法で理解する。それを丸くみるのも、四角くみるのも、物の見方に左右されているのである。

では、『物の見方』について吟味する必要があるだろう。過去の体験、自分の体験と、社会の常識との間の生じた自己的な協定または妥協によって物の見方の基盤が生まれる。ここをよーく、理解しなければならない。自分の考えが、自分のものだとは限らない事を知る権利がある。「私は何故、この事を "このように" 考えるのか?」それは本当に、自分の深い理解から生まれた事なのか? これを理解しないと、まさに、"自分の考え"と思い込んだその捕われの世界にしか、あなたは存在する事ができない。"考え" よりも、その考えの根本、そう考えると見なした出発点の方が重要なのだ。

世界は自分の中に作り出される。多かれ少なかれ、人間が共有する同じような共通の世界観は、いわば、私たちが作り出してしまった世界と言ってもいいだろう。そして、それは事実ではない。実らない恋愛、満たされる事のない欲望、失う事の悲しみ、ちぐはぐな関係性、満足しない心、他人の幸せは自分の不幸を思い知らせる、戦争で解決しなければならないと言う緊迫感、もっと満たさなければならないと言う焦り、そして、"常識" というバイブル。このような感覚はいったいどこからやって来たのか? 

ダイアログ(対話法)は、その考えの出発点に自分を導いてくれる。そう判断するまさにその瞬間に導いてくれる。すると、どう判断するのかではなく、判断そのもの自体が消え去る。ここに、悟りの一瞥がある。ダイアログは、決して、修行というものではないのだが、まさに、誰にでも、瞬間的に悟りに導く事ができる。ただ、あなたが悟りについて知っているかどうかであるが、もし、知らなければ、奇妙にも、自分の何かが覚醒した感覚として体験されるだろう。そして、あなたはそれに気づくことすらない。奇妙な感覚として知覚される。間の空いた、何かのスポットに入り込んだような。この瞬間、あなたの思考がストップした、しかし、眠ったのではない。あなたは覚醒している。

ダイアログは、これまでの過去の体験に基づき築き上げられた "世界観" 、物の見方に変化を与えることができる、なぜならば、それが誤りである事に気がつくからだ。四角く尖っていたと思っていたものは、事実、そうでなかったことに気づく。何故、今までそう思っていたのかが不思議なくらいにだ。すると、脳の中でも変化か起こるだろう。これまでと違った世界、物の見方が緩んでくるのだ。ほとんどの場合、肯定的に変化し、自分や他者を攻めなくなる。そして、ほとんどの問題が解決する。もし、まだ問題に執着するならば、あなたは未熟なだけで、しかし、成長する種に水が注がれた事に間違いはない。

私の体験によるダイアログは、ある種の執着心から私を救ってくれた。そして、まだ、自分では見えない自分の隠された思い込みや考えに気づかさせてくれる。これほど、興奮することは他にない。結局、興味は自分に注がれている。"私と言う人間" はいったい何なのだ? 数学者の数式も、科学者の偉大な発見も、私にとっては、"私" というツールから入って行く物事の深淵に迫る事とそう変わりはない。

最近、私の友人がクリーンランゲージを言うダイアログ法にはまっている。もちろん、そこにたどり着くだろうと思う。瞑想をする人は、何故、思考に目を向けるのか? っと思うかもしれない。しかし、思考の働かない人がいるだろうか? いない。では、その思考のメカニズムや、野放しになっている思考の世界を知ることはとても重要だろう。そして、思考の奴隷になっている自分の姿をはっきりと見るべきだ。

ダイアログは悟りの一瞥だけでなく、自分の思い違いを知る唯一の方法だとも言える。人に指摘されるのではなく、自分で気づくことが最高の効果を生む。その一瞥は次の一瞥を生む。






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