12.09.2015

エゴが主人公 ?

Day 3

私たちが "私" と呼ぶ者、そのほとんどが無意識にもエゴを "私" と呼んでいる。私が何かを期待する時、私はそれを "欲している" のだ、こうなってほしいと。

なぜ、そうなって欲しいんだろうか? そう、簡単に言えば、心身ともに居心地が "悪くならない" ようにだ。そのためには、バトルもきさない。。

外に向かって自分をアピールしなければならないのだ。エゴ・アイデンティティはその方法論を考えて、考えて、考え抜く。この時に起こっているのがインナー・カンバセーション、エゴとバトルのはスーパーエゴである。

そう、リジェクティング (拒否する側) のパワーを持つ者、つまりスーパーエゴと一戦を交えるのだ。エゴはリジェクティッド (拒否される側) だから、周到にかからねばならない。時には、反逆児として。時には、良い子のふりをして。時には、ディソシエート (解離) で対抗する。

基本的にはエゴがストリーのマスターであり、主人公である。これらのストーリーは、幼い子供が母親との関係性で体験したことを成人になっても "内なる世界" で繰り返すようになる。そして、この確立したイリュージョンを持って外面的にもそのように振る舞うようになってしまう。

ともあれ、エゴが主人公であり、そのストーリーはマンネリ化している。いつもの同じパターン、同じイリュージョンだから。で、ある時点で自分自身に飽き飽きする。でないかい、ん?

そう、エゴ・アイデンティティ (エゴの主体性、本性) はオブジェクト・リレーションシップ (Me + You + Affect) の中に存在することができる。

エゴのストーリーは "拒否される"と"拒否する" のパワーゲームに大きく左右されている。そして、ストーリーはこのような結論に達する、 Me は良い子/可哀想な子/正しい子 、You は悪い人/強い人/間違った考えの人。それが、どう人格に組み込まれ、自分がどのように振る舞っているか? それをまず知ることが大事である。

ブラック・ラティファのエクササイズはエゴ・アイデンティティを浮き彫りにする。そう、私たちが "私" と呼んでいる者の正体を。

それは私たちの本質ではない。ego identity (エゴの本性) と essence (本質) を切り離すのだ。本物の自分を見いだす。それは、シンキング・プロセスではなく、ダイレクト・エクスペリエンスである。そして、ダイレクト・エクスペリエンスは Known ではなく Unknown である。



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