12.04.2015

ブラック・ラティファ Day 1

 Day 1 

Diamond Logos / Black Latifa リトリート、イスタンブール空港で待ち合わせた参加者のひとり、ブラック・ラティファが2回目というカトリーナからその体験を聞いて少々、ビビった私がいる。「ブラック・ラティファがコアでその周りにレッドの壁がどないか、こないか…」と、彼女が話していた。

それは彼女のプロセスに起こったことか、それともレッドが必ずブラックの周りを取り囲んでいるのか、この時点では定かでないが、とにかく、レッド・ラティファのプロセスは私にとって困難だったと覚えている。母親との関係性が無性に私を傷ついた子供に陥し入れたのだ。

私にとってのレッドは未だにコンフュージョンである。もう一度、レッド・ラティファを受ける必要があるかも…ふぇ。何回受けてもいいらしい。それよか、他のを受けているうちにまた同じラティファを受けたくなるんだって。

それはさておき、今回のブラックはボォ〜っとせず、しっかりと取り組むようにと自分に言い聞かせた。困難に出くわしたとき、私はディソシエートする傾向にある。

さて、初日の講義の内容をリマインダーとしてここに書いておくと、Black Latifa は Peace。このラティファのセンターは第3の目、inner see、私たちのdeep water の根源、つまり、ミステリーなのである。

私たちは自分が誰か知っているつもりでいるが、しかし、表面的にである。あなたが眠ってしまったらそこにもう表面的なあなたは存在できない。眠っている間、あなたは自分がどこにいるかも知りえない。それはまるで、死の淵のようでもある。ブラック・ラティファはこの死の淵に行くことを可能にする。

私たちは新しいことに興奮するが、同時に変化することに恐怖を覚える。変化を受け入れることにビビるのだ。このブラック・ラティファでそのことにチャレンジしていく。チャレンジと言っても、優しく、静寂的に、これまでと違った方法で。

その方法とは、馴染みの思考とその思考プロセスにチャレンジしてみるといった具合だ。特に、thinking process。目覚めと共に思考が働き始める。スーパーエゴが何かを企ててエゴを掻き立てる。思考はどんどん忙しく回転し始める。しかし、実際には何ひとつとして目新しくなく、どれもこれもお馴染みの思考、そして、それらはオリジナルではない。(ダイアモンド・ロゴスはエゴ心理学に基づいている。)

思考には2つのダイメンションがある。ひとつは、トラディッショナル・シンキング。つまり、借り物な "考え" である。ジェネレーション的に引き継がれたアイディアや信条など "ある種" 的な考え、人格的で制限された思考体系。そのおかげで自分は "Known 知っている" つもりである。

しかし、借り物なのだから、基本的に不安がつきまとう。疑いが常にあり、知っているつもりでも信じることができない。とは言えど、エゴにとって unknown は許し難いのである。thinking こそが エゴ・アイデンティティなのだ。そして、私たちの考えの素は、そのほとんどが借り物である。故に、決してオリジナルに成り得ない。ここで話しているのは、実務的な思考についてではない。

ふたつ目は、Direct knowing 直接知る、または直接体験する。人から聞き集めた "考え" ではなく、あなたは直接それを知ることができる。それは、体験と呼ばれる。"考え" から脱出するのだ。あなたはそれを知っていると同時にそれを "知る" ことはない。ブラック・ラティファは私たちが知っていると思っていることの下に潜っていくのだ。ミステリーであり、アドベンチャーなのだ。

ブラック・ラティファはPeace 、深みに入っていく。その方法として、慣れ親しんだ思考にチャレンジする。Known  と Direct Knowing は違う。  "知っている" と"直接体験" は別物だ。ブラック・ラティファを妨げるものは busy mind 。間違った方法を私たちはとっている。unknowingness は状態であり、生の体験である。知らない、知ることがない、にとどまっている能力についてである。

と、こんな風な講義を聞いた後でインクワイアリーのエクササイズに入った。インクワイアリーの内容は書かないが、エクササイズの後、自分の思考回路の成り立ちに苛立ちすら覚えるほど、エゴとスーパーエゴの広場になっていた。つまり、蓋を開けてみると、何について言葉を発しようとも、そこにいたのはまさにこの2者である。じゃ、素の私はどこに居るんやと戸惑う。

えーー‼︎  私はいつになったらそいつらから自由になれるのだ! 思った以上に、というか、正真正銘、間違いなく、それは深く深く、こびり付いている。現状の私の思考はそれ以外の何者でもない。そこに居るのは、まるで、社会のコレクティブ・マインドの中で徘徊してる "知ったかぶりの老婆" だ。

良い悪い、恥ずかしい、傷つく、プライド、がんばれ、ほとんどがこの中のどれかに関係している。が、講義にあったようにどれもこれも、人から教えられた判断の上に成り立っている。私という人格がそれを証明するかのように映し出される。なんとも、情けない話である。決してオリジナルな私でありえないのだ。まるで、誰かに刻んでもらったハンコである。

私というキャラクターはいる。でも、違ったブレンド(判断)の寄せ集めなだけで、根本的に他の人とそう変わりはしない。素直に同調するか、リアクションするかの選択は、この寄せ集めたブレンドの法則に従っているだけなのである。

そして、私という人物は素直に同調するかやからではなく反逆的だ、そのなんとか反骨精神が功を成して生きてこれたようだが、すべては体裁の賜物である。

さて、このようなことは、今までに何度も知り得たことではあるが、そこから抜け出れたことはない。私はダイアモンド・ロゴスにそれを期待している。

これまでに、OSHOのおかげでそれを何度か味わったことがある。美しい体験だ。そして、今再び…

再び、Thinking 、エゴ・アイデンティティとしっかりと同盟を結んでいるのだ。古い馴染みの老婆が戻って店先に居座っている。すごく年老いているから、重い腰をもち上げて立ち去ってくれる気配は一向になさそうだ。今、この瞬間のこの時点においても。

社会の中で生きるとはこういう事だ、Unknown は危険だと忠告し、知っていると思い込む事で世渡りし続けようとする。しかし、居心地は悪い。何が間違っている。私はこれだけのものか? 生はこれだけのものか? 

と言う感じで、ブラック・ラティファが始まった。



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