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父の死

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父が亡くなった。

12月1日午後11時59分、病院にて父死去。
12月2日午前4時頃、父の体が家に運ばれる。
12月3日お寺にて通夜。
12月4日お寺にて葬式と、火葬。

この事実を私のどこが受け止めているのだろう?
ついこの間まで介護に付き添っていたのだ。

父が移動する時、父の手と私の手がしっかりと握りあう。
起こしたり、立たせたり、一緒に歩いたり。

父が亡くなるその瞬間に立ち会った。
彼は一点を見つめていた。

しばらく息をせず、そして、深いところから水面に
上がってきたかのように大きく肺に息を入れる。

その繰り返しがしばらく続き・・・
・・・あの時点に来た時、顔が真っ赤になった。
痰が詰まったかのように息が出来なくなった。

看護士さんが痰を吸引する。
しかし、その後、息をしなくなった。

顔が真っ赤になった瞬間、たぶん、
それが父の心臓が止まった瞬間なのだろう。
その時の彼の目を私は見ていた。

私はその瞬間の彼をずっと横で、
父の最後の瞬間を一緒に見守っていた。

その後、父はもうそこに居なかった。

ここ数日、私はこの事を書き留めたいと思っていた。
忘れないように。

あの瞬間に父は向こうに逝ったのだ。
向こうの人になったのだ。

あれから、死とは何か、ずっと考えている。
それは私の身にも降り掛かることなのだ。



父に感謝、一緒に時を過ごしてくれてありがとう。
父が死のプロセスをうまく渡りきれますように。
娘より










チベットの生と死の書(1)

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「私と介護」という題でブログを数回書いたからだろう、
知り合いが『チベットの生と死の書』は
どうですか・・・と教えてくれた。

この本のことは以前から知っていたが、
人の感想やコメントなどを通してであり、
自分で読んだことはなかった。

そうそう、前から読んでみたかったのに忘れていたんだ。
早速、購入し、今日から読み始めた。

読み始めたのは・・・
検査のため父を病院に連れて行った待合室から始まる。

その前に

昨日、Amazonから届いて段ボールを開けてみると、
この本を手にしたサイズがなんだか聖書のように小さく分厚い、
すでに私のお気に入りとなる予感がしたんだ。

『チベットの生と死の書』
The TIBETAN BOOK OF LIVING AND DYING
by Sogyal Rinpoche

病院にいたので、前書きのすべてを飛ばして本題から読んだ。
前書きには「ダライ・ラマ法王による序文」も含まれる。
興味はあるが、後で読むことにした。

第一章「死という鏡」
題からして "who is in 瞑想(クリック)" を続けている私は "的に一直線" と直感。
もう、この本は私の側から離れないと分かった。

待ち時間の間、48ページまで進む、ここまでは、
著者 ソギャル・リンポチェ(修行僧)の柔らかいかたり口調で
仏教の死についての世界観を少しだけ垣間みることができた。

ソギャル・リンポチェが同じ修行僧の死の床に直面した体験、
仏教が考える死について、西洋との違い、死と向き合うなど。

その中に、以前から私の心をとらえていた言葉 "バルド" が出てくる。
それが何のことか以前は不明であったが、ここに明確に記されている。

バルド・・・「バルドは生と死を通じてつねに絶え間なく起こっている。
そして、それは解脱の可能性が、覚醒の可能性が一段と高まる連続なのである。」

と、記されている、これを読んだとき、私は私の本業、
クラニオバイオダイナミクス(クリック)と言う手法を使って知覚する
ブレスオブライフのことを思った、「間違いないだろう!」っと。

私は確信を持って、私が来た道、私が選んだ学びの手法が、今、
結ばれて統合されようとしていることを知った。

それに父の病状は不可欠だったのだ。
もし、親密な誰かが死に近づいていなけ…

私と介護(3)遠出ドライブ

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熱も下がり、だんだん元気を取り戻してきた父、
介護疲れでくたくたの母、この2人を誘って、
今日は・・・何とかドライブに連れ出すことに成功 (にっ!

父を車いすに乗せて散歩できる奈良公園など良いかと思ったが、
母が海を見たいと言うことで、明石海峡にむけて走ることになった。

トイレが近い父のことが少し心配だったが、
介護ファミリーになって感心したことは、
あちらこちらのトイレに車いす専用の個室トイレがあったこと。

そして、車いすを乗せた車はトイレのすぐ横に特別駐車できる。
ああ、なんて日本は至れり尽くせりなんだろう (^^)
その意味でストレスなく、安心してドライブを楽しむことが出来た。

帰りは事故のため、もの凄い渋滞に巻き込まれたが、
別ルートに逃れて何とか脱出。

大阪からはるばる明石海峡を超え、鳴門海峡も超えて、
お寿司を食べて帰ってきた・・・・

まあ、父が遠出のドライブ出来ると分かったことで、
・・・・・良しとするか。




私と介護(2)父の誕生日

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昨日は、父の86歳のお誕生日。
介護必須で毎日を過ごしている父は複雑な気持ちに違いない。

本人だけが感じている繊細な感情の葛藤に
私たち家族はどこまで近づいてあげることが出来るだろう。

介護する側もいたって人間的である。
昨日と今日、午前と午後、そのつど気分は変化する。
心のゆとりは健康的な体に起こるのだ。


「気づきとともに中心へと浸透するのだ」とOSHOが囁く。

  リメンバー、ユー、アー、オンリー、ウォッチャー
  体でもなく、マインドでもない。

  鏡だけがジャッジなく反射することが出来、
  池の中に月が清らかに反射される



写真の中の父は何を反射しているのだろう。





介護と私 (1)

この話は、誰も興味を示さない話だろう。面白くも可笑しくもない。ただ、私自身に起こっている "介護する" という現状について心のままに、嘘偽りなく、書きたいと思う。と言うことは読まれて私に対する偏見を持たれる可能性が生じる。しかし、書いてみようと思う。そして、いつものように twitter を通して facebook に流すのだ。

ちょっと勇気がいるかもしれない。しかし、書くことで自分の気持ちを改めて確認し、見つめたい。そうでもしないと心のバランスが崩れそうだ。時には変なことを考える私を客観的に眺める助けになるだろう。そして、私は "マザーテレサ" ではない。

 "介護" とは、まったく自分の心を写すものであると理解した。父が緊急入院して依頼、家族は彼に付きっきりである。今は退院してもうすでに3週間ほど過ぎただろうか、自宅での介護である。病院は完全介護なのに入院中は個室が空くと交代で宿泊し、家族の誰かが常に彼に付き添っていた。うちの家族はやり過ぎと言うことを知らないようだ。

手術後はもう駄目かと思った。心臓の動脈弁閉鎖症で心膜内に2Lほどの水がたまっていた。水は抜くことが出来たが問題の閉鎖症の手術(一時的に心臓を停止させる)はあまりに大掛かりで、高齢であり、また、肝臓がんの父にはとても施すことが出来ない。術後、2週間ほどは食事も飲み物も口にせず骸骨のようにやせ細っていく父を見て私の心は深く神妙であった。

その後、無理な退院を強く希望した父であったが、自宅で栄養のある食事と住み慣れた我が家での安心感から現在は少し体の肉がついてきた。彼のメインの仕事は食べて排出し、歯を磨いて寝るだけ。シャワーは母の担当である。退院直後は本人も踏んばって少しは杖と人に支えられて家の中を歩けた、何とか回復して自立できるのではないかと希望も持っていたようだが、現在に至ってはその希望も砕けていくように出来ないことが増えていく。一昨日は熱が38.7度もあり、かかりつけのお医者さんが往診に来て肺炎ではないかと思われたが、そこには至っていなかった。

父の頭の中はもう、やけくそに近いんだろうと思う。不甲斐ない気持ちに苛まされているだろう。頭が通常通りしっかりしているので悶々とした日々を過ごしている。体を思いのままに動かすことが出来ない、以前のよ…

夢見るパンゴン・ツオ

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私にとってのこの旅のピークポイントは
標高4200mほどにあるパンゴン・ツオである。

インドと中国の国境をまたがってある天空の湖。
ここに一泊しかしなかったのはやはり惜しい。

幸いにも、程よく雲があり、そして快晴であったこと。
雲がなければ、何か物足りなさを感じただろう。

雲の存在はすごい圧倒感を与えた。
空、雲、風、湖・・・それを体験する私。




湖の色が空の色に反映し、それはもう、美しい。
トルコブルーになったり、深い藍色になったり、それらはとても澄んだ青だ。






飛び込んでその穏やかさと激しさ、その深遠さを肌で感じたかった。 だが、周囲に気を使い、浸したのは足だけ・・・。
これからの旅の支度に、いつ、どこででも、 水に飛び込めるように準備しておこう! と思った。
夢のパンゴン・ツオ




女性の生理と神様のしきたり

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Ladakh ツアー

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日常の中のメディテーション

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Who is in メディテーションから出てきて6日目。通常の生活に戻ってきても、体験は私の中で続いている。そのことを見逃さないでいられるのはありがたい。ちょっと遠くの音に耳を傾ければ空間がぐわ〜んと広がる。そして静寂がやはりここにあった。例え、何をしていても。


観照は奥が深い

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“観照” を辞書で調べてみると『主観をまじえないで物事を冷静に観察して、意味を明からに知ること」とあった。その他に、『美学で、対象の美を直接的に感じ取ること、美の直感。』とある。私が言うところの観照とは後者の方に近いのだろう。意味を明らかにするのであれば、そこに思考が存在する。それに比べ、直感は体験的なものだ。

先のゴールデンウィークで行った <Who is in リトリート>ではこの観照がついてまわる。何を考えても、何を感じても、何に従事していても、それを観照し続ける。観照し続ける上に、公案テクニックでそれについてコミュニケートする。

公案テクニックがより優れているのは --- 観照がどれだけ深いか?--- が自分で確認できるところだ。ただ静かに座って観照しているのであれば、それが夢なのか、現実なのかの区別がつきにくい。公案では “夢” が打ち砕かれる。このプロセスとインテンションを持ち続けることで隙間と呼ばれる無思考が鮮明になり、ノーマインドの状態を体験的に認識し始める。その深みが濃厚になっていく様子を観照する。無が出現する。そこに夢は存在しない。

----- 私の体験

今回のファシリテーションで私が知ったことは、自分はまだまだ振り下げてられていないということだった。知識をクリスタライズするのは得意かもしれない。そこには何らかの体験が含まれているので少々現実味を帯びて見せることもできる。でも、「本当にそれが真実か?」と自分に問うと、マインドと言う陶器の一部に亀裂が走り、ピキッという音が聞こえて今にも壊れそうだ。

そうであれば「壊れてしまえばいい!」と願う。しかし、願ったところでそれは叶わない。それほど魔神のようなマインドに私は支配され、コントロールされている。瞑想の時間だからマインドは脇に控えてもらおう、それは難しくない。しかし、普段から野放しで自由奔放であるマインド(心)は私が瞑想している間にも、隠れてあらゆる情報を収集し続けている。出番が来たらすぐに対応できるようにと。私とマインドは一体化している。

同時に、公案とアクティブ瞑想は “私” というシステムにどんどん働きかけていく。いくらマインドが騒いだとしても、その下に横たわる “静寂の世界” はいっそう現実味を帯びてきた。“私” という存在の中心が私(観照)をつなぎ止めている。

3泊4日の who is…

白保の家

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クラニオバイオの仲間、佐々木ちほちゃんにコース開催のため石垣島に招待された。彼女自身は地元でこのワークを広げていこうとがんばっている。コースはいつも4日間で構成されているがこの深いスティルネスの体験をするにはそんなに十分な時間とは言えない。しかし、参加される方はこの短い4日の間のどこかで必ずその体験をする。このワークは私にそんな驚きをいつも与えてくれるのだ。

コース開催でこの地に降りたのだが、ちほちゃんの案内で授業の合間に幾つかの場所を訪れた。石垣北部、竹富島、石垣市街、カビラ、米原、名も分からない幾つかの海岸。それらをまわるたびに「へえ〜、これも日本・・・」っと嬉しくなっていく私がいた。さらにこの沖縄的民家にとても惹かれる。インドのゴアを思い出しながらのんびり感にくつろぎ始めた。

もちろん、竹富島のような☆の砂がある "そのまんま" な場所に住めたら良いが、石垣本島のクラニオコースを開催したロチェスさんがある白保も素敵な集落だ。そこから2つ筋違いの所にちほちゃん夫婦が買った土地もある。そうするとご近所さんにお友達がいるので何かと助けてもらえそうだ。このような私の思いを白保で見つけた家に受け入れてもらえるだろうか。しばらく、このことをこの神聖な場所とともに瞑想する。




パパジ~「I」(私)をなくす

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私の知人、藤本靖さん著『疲れない体』のなかの一節に目が止まりました。 「目は見ることには慣れているが、見られることには慣れていない」
これは本書の中で、人と目を合わせるのが苦手・・・ という内容に沿って書かれていました。 藤本氏も以前は目を合わせるのが苦手で、緊張し、 目線をどこに会わせていいのか困った・・・とあります。
さらに、
目が自意識と深く結びついているので、目線を向けられると相手の意識が こちらに向かって自分の中に侵入してくる感じがして、 思わず避けたくなるのです・・・・・とあります。
これに対して、どのような工夫が考えられるかなどが 本書に示されていますので知りたい方はご購入を!
http://www.amazon.co.jp/「疲れない身体」をいっきに手に入れる本-目・耳・口・鼻の使い方を変えるだけで身体の芯から楽になる-藤本-靖/dp/4906732135
それはさておき、 「目は見ることには慣れているが、見られることには慣れていない」 について、確かにな〜っと思った次第です。
「見られている」は、―見透かされている― につながり、 お腹の辺りがもぞもぞとして自分のガッツを引っこ抜かれたようにも感じられ、 穴があったら入ってしまいたい!っとびくびくしてしまいますね。
特に目は、脳とダイレクトにつながっていて、自分の中枢神経系が 言わば、裸で飛び出していると行っても過言ではなく、
また、目は情報を取り入れるはずの末端の器官なので、 逆に言えば、そこから情報を吸い取られる(嫌な言い方だけど)可能性もあるかも。 ストローみたい? 確かに・・・・ははは (^^;)
かなり前、インド中部でパパジと呼ばれるマスターにあったことがある。 マスターのすぐ目の前で質問をされた時、 私はかなり・・・それもかなり!ビビったことがる。
マスターの目は赤ちゃんのように純粋で、 私の濁った考えなど及ばないほど深く澄んでいた。 私の思考はそのマスターに見透かされているようにビビっていたよ。 今思うと、おかしな感じだけど、私の思考は事実、震え上がっていた。
嘘が見透かされているような・・、 私の思考が考えるようなことなど木っ端みじんに砕かれそうで・・・、
私はその場で嘘をついた分けではないが、 マスターの質問に対して何をどのように答えたら良いのか 真っ白になってしまったことを覚えている。





baby skull

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Do you believe or not, this i draw.....
信じるか、信じないか、でも、私が描いたのだ




photoshop で模索中

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Illustrator と photoshop を習っている、ぜんぜん、使えきれていない。習っていることのほとんどが使えてないけど、遊び方を模索中。これを描き続ければ、いつか、誰か、CDジャケットの挿絵でも注文してくれないかと思い始めた。もしくは・・・・絵本でも描こうかしら? もしくは、クラニオの教材をこれで作るとか・・・・、頭蓋骨のひとつひとつを描くのに凝りすぎて一生出来上がらなかったりして、ははは、と笑っているが、心の中で試してみようか?っと密かに思っている私がいる。



結局・・・

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Adobe のIllustrator と Photoshop を習いにKENスクールに通っている。Illustrator の方は基礎を習い終わって、今、Photoshop の基礎に移っているが、結局、それを仕事でもして使わない限り、もしくは、ものすごい時間の余裕があって趣味で芸術作品を作ろうとしない限り、それらはほとんど使わないだろう。特に、Illustrator はしっかり面倒でこの先、使うだろうか? っと疑問である。私は、何故、これを習いたかったのか?と今日、考え直した。コンピューター上で絵を描きたかったからなんだけど、Illustrator は “はっきり言って” 面倒すぎる。で、Photoshop は写真をいじることができるのだが、写真家でもないのにそこまでするか? と思う。写真を使わず、photoshopで初心に返って絵を描こうとしたら、所詮、できたのがこの程度。WEBサイトのバックベースにどうかと思って始めたのがちょいとした始まり。まったくもって素人だ。これまでに習った技術は、いっさい何も、これひとつも、使っていない。


漫画を書きたいわけではないが、こんな風にかけるようになると面白いだろう! それはIllustrator でもphotoshop でもない、スクールの帰りに見つけたこのソフト(以下)だったのだ・・・・絶句。最初からこれを買って遊んでいたら良かったかも、と思った。モノは高いので、無料体験できるから、したい人は楽しんで!

http://www.corel.com/corel/product/index.jsp?pid=prod4030123&cid=catalog3560067&segid=2100100&storeKey=jp&languageCode=ja


(><) ......